2017年3月24日 (金)

2017年3月24日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 文京区編④」

小松さんのブログは後日更新予定です。

3月24日放送の音声はこちらですkaraoke

2017年3月17日 (金)

2017年3月17日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 文京区編③」

3月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(文京区編)です。
3月17日放送では「吉祥寺は文京区になるのに、吉祥寺駅は武蔵野市にある不思議」についてお話します。


 吉祥寺というと、武蔵野市の吉祥寺駅界隈のことですね。ハモニカ横丁、落ち着いた家並み、井の頭公園があって、数年前までは「住みたい街」ランキングでトップでした。ところで吉祥寺というからには、近くに吉祥寺というお寺があるはず、と思って探しても見つかりません。実は吉祥寺というお寺は文京区本駒込にあります。正式には諏訪山吉祥寺といいます。曹洞宗の寺院です。駅は武蔵野市、お寺は文京区。どうしてでしょうか?

 歴史を遡ってみましょう。太田道灌が江戸城を築いた際、井戸を掘っていると「吉祥」と刻印された金印が出てきました。これを江戸城でまつって吉祥庵と名付けました。吉祥寺の始まりです。その後、天正年間(1573〜92年)に吉祥寺は現在の水道橋駅近くに移転しました。ところが1657年の明暦の大火で吉祥寺は焼失し、現在地の文京区本駒込に移りました。一方で水道橋の吉祥寺門前に住んでいて焼け出された人々に武蔵野の土地、現在の武蔵野市の土地を与え、開墾を奨励しました。武蔵野台地の新田開発が進み、村が誕生しました。
 人々はかつて住んでいた吉祥寺門前という町名に愛着を持っていたので、新しく出来た武蔵野の村を吉祥寺村と名付けたのです。つまり、大火の後、お寺は文京区へ、住人は武蔵野市へ分かれて移転したため、こういうことになったのです。

 武蔵野市には西久保という町がありますが、この町名も江戸にルーツがあると伝えられています。現在の港区にあたる芝西之久保というところに住んでいた住民が、やはり明暦の大火で被災し、武蔵野に移転。吉祥寺と同様に愛着のある西久保という地名をつけたそうです。明暦の大火後の江戸再建は人々、寺院、武家屋敷の大規模な移転を伴ったことが地名の変遷からも想像できます。江戸時代に吉祥寺境内に僧侶を養成する学校があったのですが、その学校が現在の駒沢大学のルーツです。

 武蔵野市は江戸とのつながりが深く、井の頭公園の井の頭池は江戸の上水道、神田上水の取水源で江戸市民の生活を支えました。武蔵野市に隣接する三鷹市は徳川将軍が鷹狩を行った鷹場の村々があったことに名前が由来していると言われています。

Photo

Photo_2   

文京区本駒込にある吉祥寺(文京区ホームページより)


※ 吉祥寺の住所は、文京区本駒込3−19−17。最寄り駅は地下鉄南北線本駒込駅です。

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2017年3月17日放送 日本のカタチ

2017年3月10日 (金)

2017年3月10日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 文京区編②」

3月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(文京区編)です。
3
10日放送では「江戸の境界を伝える説明板」についてお話します。


 本郷通りの本郷三丁目交差点の角に、「かねやす」という名前の用品雑貨店があります。店舗の外壁に面白い説明板があります。「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と書いています。この言葉、亨保年間の1730年ごろに詠まれた川柳なのです。

 「かねやす」は、兼康祐悦という歯科医が江戸時代初期に開いた小間物の店です。元禄年間に「乳香散」という歯磨き粉を製造販売し大ヒットしました。

 先の川柳についてお話しましょう。1730年に江戸で大火があり、時の町奉行・大岡忠相が現在の本郷三丁目交差点付近から南の江戸城にかけての家々に対して、燃えやすい茅葺きを禁じて瓦葺きにするよう指示。また耐火性の土蔵づくりも奨励しました。防火対策ですね。そして本郷三丁目交差点付近から北は、従来の茅葺きの家が続いたといいます。街の風景ががらりと変わったのですね。「かねやす」はちょうどその境目、耐火建築区域の北限だったことから「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と言われるようになったのです。

 ところで、江戸の境界といっても、「かねやす」は正規の境界ではありませんでした。あくまでも町奉行の防火対策上の江戸の境界です。お裁きで江戸所払いという刑罰があります。この場合の江戸は「品川、板橋、千住、新宿、本所・深川の内側」です。一方、旗本や御家人といった徳川将軍の家来は江戸の外へ外出するときは幕府に届けなければならなかったのですが、この場合の江戸は「江戸城を中心に四里四方」と定められています。わかりやすく丸めて言えば、江戸城から半径8キロの範囲が江戸だということです。さらに、変死者や迷子が出た場合、江戸市中に高札で知らせることになっていたのですが、この時の江戸はさらに違った範囲でした。つまり、幕府の機関によって江戸の境界はまちまちだったのです。

 さすがに、これでは不都合だということで、1818年になって地図に朱色の線で江戸の境界を確定しました。これを「朱引き」といいます。現在の地図に重ね合わせると、北はJR王子駅と千住大橋、東は荒川、南は大井町駅、東は東中野駅で囲んだところが江戸です。「かねやす」の北もすっぽり江戸になりました。

 それにしても、ほぼ同じ場所で業種は変わっても400年も店舗を構えている「かねやす」に歴史の伝統を感じます。

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本郷3丁目の雑貨店「かねやす」の外壁に取り付けられた
江戸の境界を示す説明板

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2017年3月10日放送 日本のカタチ



2017年3月 3日 (金)

2017年3月3日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 文京区編①」

3月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(文京区編)です。
3
3日は「東京大の赤門」についてお話します。


 本郷通りを歩くと、東京大学の朱塗りの赤門があります。観光客が訪れてよく記念撮影写をしています。この赤門、東京大学を設立した時につくった門ではありません。東京大学本郷キャンパスの敷地は加賀藩前田家の上屋敷にすっぽり収まっています。実は赤門は前田家屋敷の門です。正式には御守殿門といいます。御守殿とは御三家や格式の高い大名に嫁いだ徳川将軍家の娘の敬称で、その娘が住む御殿のことでもあります。

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加賀藩前田家の屋敷。現在は東大本郷キャンパス

  御守殿の門が御守殿門です。そして御守殿門は朱塗りにするのが決まりで、赤門と呼ばれるようになりました。他の門は黒色です。つまり大名屋敷に赤い門があるところは、徳川将軍家の娘が嫁いだことを示しているのです。江戸の大名屋敷には、彦根藩井伊家、佐賀藩鍋島家の赤門も有名でした。大名にとって将軍家と婚姻関係があることを象徴するシンボルです。

 東大の赤門は1827年、加賀藩13代藩主・前田斉泰が、11代将軍・徳川家斉の娘・溶姫を迎え入れた時に建てられました。ちなみに溶姫は家斉の21番目の娘です。家斉には50数人の子供がいて、男の子なら有力な大名家に養子に、女の子なら嫁がさなければなりません。受け入れる側も大変でした。

 赤門は火災などで焼失したりすると、再建は許されませんでした。このため加賀藩はお抱えの火消し、消防隊に警戒させたと伝えられています。加賀藩の消防隊は「加賀鳶」と言われ、勇猛果敢な消防隊として有名でした。その甲斐あって、焼失せずに残ったのです。関東大震災、空襲にも耐えてきました。ちなみに、現存する赤門は東大の赤門だけで、国の重要文化財に指定されています。

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加賀藩前田家が造営した赤門


 赤門をくぐって東大のキャンパスを散策するのも楽しいですよ。庭園に囲まれた三四郎池は、夏目漱石の小説「三四郎」から名付けられましたが、もとは加賀藩前田家屋敷の大名庭園の池です。二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が屋敷を訪問した際、将軍の目を楽しませようと造営した庭園と池です。東大の名所は、徳川将軍家とゆかりが深いのです。

※ 掲載の地図は「復元江戸情報地図」(朝日新聞社)から引用しました。

音声はこちらkaraoke

2017年2月24日 (金)

2017年2月24日放送 日本のカタチ「新宿区・中野区編④」

2月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区&中野区編)です。
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24日放送では「象の飼育小屋」についてお話します。

 

 先週は犬小屋があった中野区桃園の旧地名の話をしました。現在の中野区には江戸時代、象を飼育していた小屋もあったのです。時は1728年6月。安南の国、現在のベトナム北部からオスとメスの二頭の象が長崎に運ばれました。メスの象は長崎で死んでしまったのですが、オスの象は陸路、ベトナム人の象使い、日本人の象使い見習いら総勢十数人の行列で京都へ向かい、当時の中御門天皇に謁見しました。なんと象は従四位の官位を授かったのです。というのも、天皇に拝謁するにはたとえ動物であろうと無位無官ではダメだということで、急きょ官位を与えたようです。将軍家から松平性を賜った高級大名並の扱いです。

 その後東海道を歩き、翌年の1729年6月に江戸に到着しました。なにしろ当時としては貴重な象です。街道には「象の飲水を用意する」「牛、馬を街道から遠ざける」「鐘をついてはいけない」というお触れが出ました。

 江戸城に入った象は八代将軍吉宗に謁見し、その後、浜御殿(現在・浜離宮庭園)で12年間、飼育されました。吉宗は江戸城に天文台を設けるなど、好奇心旺盛で有名なのですが、象の飼育に莫大な費用がかかり、災害があると逃げ出して危険だということで持て余し、払い下げることになったのです。

 払い下げられたのは中野村で農業を営んでいた源助という人物。源助は象の小屋を建てて飼育し、見物人から料金をとって、さらに茶店で饅頭を売るなど象のビジネスにいそしみました。でもわずか1年半で象は死んでしまいました。エサ代をけちったとも言われています。ちなみに源助は象のフンをはしかに効く薬「象洞(ぞうほら)」として売り出しています。源助は飼育している間、両国の盛り場などへ象を連れていき、象のフンの薬の販売を目論んだのですが、売れ行きはイマイチだったようです。

 死後、象の皮、牙、骨は幕府に上納され、その後、牙と骨は再び源助に払い下げられました。牙と骨は見世物として両国広小路、湯島天神などで、有料で展示されました。しかも売れ残った象のフンの薬を売ろうとしていたとも言われています。象は死んでもビジネスに利用されたのです。その後、牙は中野の宝仙寺というお寺に奉納されました。宝仙寺の寺宝として保存されていたのですが、第二次大戦の空襲で焼失したそうです。

 源助が象を飼育した象小屋は、現在の朝日が丘公園(中野区本町2−32)にあったと伝えられ、説明板が設置されています。

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長崎から江戸まで歩いた象の絵
(国立国家図書館デジタルアーカイブより)

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2017年2月24日放送 日本のカタチ

2017年2月17日 (金)

2017年2月17日放送 日本のカタチ「新宿区・中野区編③」

2月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区&中野区編)です。
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17日放送では「犬小屋と桃の名所」についてお話します。


 今週から中野区です。戦後になって住居表地が大きく変更され、歴史ある地名が次々に消滅しました。ただ、小学校の名前に歴史を残しているところも多いのです。中野区立桃園小学校です。桃園というのはかつて中野区にあった町名です。なぜ桃園なのでしょうか? 1735年、八代将軍吉宗がこのあたりに桃園の造営を命じました。6万7000坪(22万1千平方メートル)、東京ドームで約5個分の敷地に紅白の桃が咲き誇ったといいます。

 江戸に滞在する大名たちも桃の鑑賞に訪れたほか、庶民も多く見物に来ました。江戸名所図会にも描かれています。このあたりは江戸の郊外。周囲は農村でした。大勢の人がくると農作業にも影響が出ます。このため、吉宗は農民たちに副業として行楽客相手の茶屋の営業を認めました。

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江戸名所図会に描かれた桃園


 さて、桃の行楽地は、数十年前まではまったく違う景色でした。幕府の犬小屋があったのです。五代将軍綱吉が生類憐れみの令を発布し、野犬を保護するための施設だったのです。敷地面積30万坪(約100ヘクタール)。ここの犬小屋では、4万頭以上の犬を収容したと伝えられています。犬の餌の費用は膨大な額です。年間3万8500両。1両10万円として3兆8億5000万円。この費用は江戸市中の町、関東の村々で負担したと伝えられていますから、大変だったでしょう。

 綱吉が亡くなって生類憐れみの令は撤廃され、犬小屋の跡地の一部に桃園がつくられたわけです。犬小屋にいた犬のその後ですが、地域の住民が面倒をみることになったのですが、あまりに数が多いので今の埼玉県、神奈川県など首都圏に分散して預けられたと伝えられています。

 吉宗は飛鳥山などに桜を植樹して、花見の名所をつくったことで有名ですが、桃の名所もつくったのです。吉宗は庶民に人気があるかどうかを気にしていたようで、天下の悪法といわれた生類憐れみの令の象徴だった犬小屋を、行楽地にする発想にはすごいものがあります。現在のJR中野駅から中野区役所、高円寺駅に至る一帯が犬小屋、そして桃園があったのですが、現在も中野区役所の前に犬の銅像があります。

Photo_2   

中野区役所前にある犬の銅像
(中野区ホームページより)

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2017年2月17日放送 日本のカタチ

2017年2月10日 (金)

2017年2月10日放送 日本のカタチ「新宿区・中野区編②」

2月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区&中野区編)です。
2
10日放送では「牛込には牛がいた?」についてお話します。


 かつて牛込区という区がありましたが、淀橋区、四谷区と合併して新宿区になりました。現在は神楽坂、市ヶ谷、早稲田が昔の牛込地域です。今でも牛込警察署、牛込郵便局と牛込の名前を冠した施設が多くあります。この牛込、名前の由来は、牛が多くいた所と伝えられています。武蔵風土記は「武蔵の国は原野が多く、駒込、馬込は牧場があったところで、牛込は牛が多くいた。込とは多く集まるという意味」と記しています。

 日本で酪農が本格的に行われたのは、八代将軍吉宗の時代、1727年からです。白牛3頭を輸入し、現在の千葉県で飼育を始め、100頭近くまで繁殖させました。絞った牛乳に砂糖を入れて煮詰めて乾燥させた「白牛酪」をつくり、市販しました。幕府直営の乳製品です。バターが乾燥した感じでしょうか。削って食べたり、お湯に溶かして飲んだりしたようです。ただし、かなり高価だったようで売れ行きはよくありませんでした。しかも、販売場所は江戸城・雉子橋(千代田区一ツ橋)の厩でした。主に将軍家や大奥で食されていたようです。

 さて、牛込ですが、江戸の古地図をみると、大昔、牛が多くいたという風情はありません。旗本屋敷ばかりです。ところが、明治なると風景は一変します。明治維新後、主がいなくなった旗本屋敷など武家屋敷が荒れ放題。治安対策と殖産興業を兼ねて、また外国人の間で牛乳をもとめる需要が多かったこと、日本人の健康増進という側面からも東京で牧場があちこちに出来たのです。

Photo   

江戸切絵図「牛込市谷大久保絵図」に描かれた牛込地域。
江戸時代は武家屋敷が多い地域だった


 明治15年の東京の酪農業者の資料がありますが、それによると、麹町区の118頭を筆頭に神田、日本橋、京橋で牛が飼育されています。牛込区には21頭の乳牛が飼育されていました。まさに牛込です。東京には牛乳1杯を注文すれば新聞をタダで読めるという「新聞縦覧所」も各地で出来ました。ただ、東京が近代都市になるにつれて、牧場は悪臭を出し衛生上良くない、などの理由で牧場は廃れていきます。

 牛込といえば面白いエピソードがあります。江戸の人たちは「猫を10年飼うと人の言葉をしゃべる」と信じていたそうです。特に牛込の猫はよくしゃべっていたとか。町奉行を務めた根岸鎮衛が町の噂話を集めた「耳袋」という随筆を書いていますが、ここでも牛込の猫はよくしゃべると書いています。牛込の名主の家に生まれた夏目金之助(夏目漱石)が、しゃべる牛込の猫をモチーフにして「吾輩は猫である」という名作を世に出したと言われています。

※掲載の古地図は「もち歩き 江戸東京散歩」(人文社)から引用しました。

音声はこちら
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2017年2月10日放送 日本のカタチ

2017年2月 3日 (金)

2017年2月3日放送 日本のカタチ「新宿区・中野区編①」

2月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区&中野区編)です。
2
3日放送では「水と縁が深い新宿副都心」についてお話します。


 きょうは、東京都庁、京王プラザホテルなど超高層ビルが建ち並ぶ新宿副都心の移り変わりをお話しましょう。大規模な開発ができたというのは、広大な土地が用意されていたことがしのばれます。時代をさかのぼれば、このあたり一帯は淀橋浄水場という浄水施設がありました。淀橋という名前は現在の新宿区と中野区の境界を流れる神田川に架かっていた橋の名前です。もともとは姿不見橋(すがたみずばし)と呼ばれていました。ある人が財宝を奉公人に運ばせて小金井に隠したのですが、奉公人からうわさが漏れるかもしれないと思って、この橋で奉公人を殺害したので、この橋を渡ると二度と帰れないということから姿みず橋となったのですが、三代将軍家光が鷹狩に来て「不吉な名前だ」というので淀橋に変更させたと伝えられています。江戸名所図会にも水車小屋とともに淀橋が描かれています。

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江戸名所図会に描かれた淀橋


 新宿区はかつて、淀橋区、牛込区、四谷区に分かれていたように、淀橋は地名になっていたのです。新宿区になってからも淀橋の地名は残っていましたが、現在は西新宿に統一されました。家電量販店のヨドバシカメラは、この淀橋で設立されたことにちなんでいます。

 前置きが長くなりましたが、淀橋浄水場の経緯についてお話します。明治19年、東京でコレラが流行しました。それまで東京は、江戸時代のインフラである玉川上水と神田上水をそのまま使っていました。衛生的な水道を整備するため、玉川上水が流れていた新宿から用水路を引き、整備したのが淀橋浄水場です。1965年に東村山に新しい浄水場ができて、淀橋浄水場は廃止され、副都心整備がされたのです。

Photo_2   

現在の新宿副都心にあたる江戸時代の角筈村。
熊野十二社の池の付近が現在の新宿中央公園


 さらに時代を遡って江戸時代、この淀橋界隈を古地図でみると、角筈村となっています。角筈村は江戸の西のはずれでした。角筈村に囲まれるようにして熊野十二社(十二社権現)があって、池がありますね。江戸名所図会にも描かれています。なんと滝がありますね。池と滝の景勝地だったのです。池の周りには茶屋、料理屋が建ち並び、舟遊びも行われていました。

Photo_3   
熊野十二社付近には江戸時代、滝があった(江戸名所図会)より


 さて、角筈村の景勝地は現在、何になっていると思いますか? 新宿中央公園です。新宿中央公園を歩くとナイアガラの滝を模した人口の滝があります。江戸の行楽地、浄水場、そして公園になって滝が戻ってきました。古地図を見ると、昔と今が水で結ばれていることが分かり、面白いのです。

※ 掲載の地図は「復元江戸情報地図」(朝日新聞社)から引用しました。

音声はこちらkaraoke

2017年1月27日 (金)

2017年1月27日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る④」

1月のテーマは「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る」です。
1月27日放送では「六間堀の敵討ち」についてお話します。


 きょうは、時代小説「鬼平犯科帳」第7巻第6話「寒月六間堀」の舞台です。これは、長谷川平蔵が本所竪川・二の橋たもとの軍鶏鍋屋「五鉄」で酒を飲みすぎて宿泊し、そのまま2日間行方知らずになったという話です。その裏で平蔵は、息子を殺害した敵を見つけた西国の年老いた武士に出会い、助太刀を申し出て、敵の動向を探っていたのです。平蔵が隠密理に助太刀をしたのは、火付盗賊改の役目とは関係がないうえ、正式の敵討ちではないからです。武士の敵討ちは親、兄など目上の縁者を殺された時に認められ、息子や弟の敵討ちは認められなかったからです。

Photo

竪川・二之橋。長谷川平蔵が酒を飲みすぎて宿泊した
軍鶏鍋屋「五鉄」は後方の木のあたりにあったとの設定だ

 平蔵は信頼する密偵だけを使い、敵を尾行します。竪川・一の橋近くの弁天社(江島杉山神社)の参道に平蔵と老武士が身を潜め、屈強な浪人に守られた、かごに乗った敵が一の橋に近づいてくるのを確認。六間堀の猿子橋へ先回りして、待ち伏せし、老武士は見事に敵討ちを果たします。この敵討ちの尾行ルートは小説で詳しく描かれていて、たどることができます。ただし、六間堀の運河は埋め立てられ、猿子橋は存在しませんが、現在の都営地下鉄・森下駅のA2出口の隣、新大橋通り沿いの公園が六間堀跡です。この公園の幅が六間堀の川幅です。陸橋から反対側に渡り、そのまま道路を小名木川方向へ歩くと常磐一丁目交差点(江東区常盤1)があります。ここが猿子橋跡です。

Photo_2   

長谷川平蔵が助太刀した敵討ちの現場、猿子橋があった常盤1丁目交差点


 実は猿子橋で実際に敵討ちがありました。ある大身旗本の家臣が同僚に殺害されたのですが、旗本家では対面を保つため事件を隠蔽しました。納得できない妻と娘が6年後、助太刀を得て猿子橋で敵に立ち向かいました。相手は重傷を負い間もなく死亡。旗本の対面に挑んだ妻と娘は町奉行所の取り調べを経て、おとがめなしでした。1798年のことです。

 実は江戸時代、武士以外でも敵討ちと認められれば無罪放免されたのです。江戸後期からは農民ら武士以外の人達による敵討ちが増えています。一方で旗本や御家人ら幕臣の刃傷沙汰は少なくなかったのですが、敵討ちはほとんど見当たりません。武士では地方の大名家の武士の敵討ちが圧倒的に多いのです。江戸考証家の三田村鳶魚は「幕臣は都会の武士として生活本位になり、義理や道理から離れていった」とその理由を説明しています。サラリーマン化していったのですね。

 富山藩では殺害された父親の敵討ちをしないとの理由で、屋敷と家財を没収され追放された藩士もいました。武士道の地方と江戸の格差は顕著だったようです。

 小説の老武士は20数年かけて敵討ちをしたのですが、江戸時代で敵討ちの最長記録は53年です。山伏だった夫を農家の男に殺され、妻と息子が53年かけて敵を現在の福島県で見つけ、討ち果たしたという記録があります。1853年のことです。

Photo_3   

長谷川平蔵と老武士が身を潜めた弁天社(江島杉山神社)参道

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2017年1月27日放送 日本のカタチ

2017年1月20日 (金)

2017年1月20日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る③」

1月のテーマは「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る」です。
1
20日放送では「鬼平の勘働きの原点 目黒行人坂」についてお話します。


 先週は目黒不動のお話をしましたが、江戸から目黒不動に向かう参道の起点が行人坂と呼ばれる坂道です。JR目黒駅西口からすぐのところに行人坂の入り口があります。全長150メートル。勾配のきつさは相当のものです。鬼平犯科帳の小説では、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵は妻の久栄から「年寄りじみて、およしあそばせ」と言われながらも、亡き父・長谷川宣雄愛用のつえを手に行人坂を歩いています。

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行人坂。右手が大円寺


 作者の池波正太郎が行人坂の描写で、父宣雄を持ち出すところは「さすが」と思わせるのです。作品では触れられていませんが、史実の父親の宣雄と行人坂とは深い因縁があるのです。

 1772年2月、行人坂沿いの大円寺というお寺から出火し、火は強風にあおられ麻布、神田、日本橋、田端、千住にまで燃え広がりました。死者1万4700人、行方不明4060人。目黒行人坂の大火と呼ばれ、江戸三大大火の一つに数えられています。この時、火付盗賊改方長官だったのが平蔵の父宣雄でした。2カ月に及ぶ捜査の結果、宣雄は行状のよくない修行僧、大円寺とは関係のない修行僧ですが、彼を放火容疑で逮捕しました。逮捕の端緒は、この修行僧が歩いているのを町で見かけたのですが、立派な袈裟を着ているのに足袋をはかず、かかとにあかぎれがあった。袈裟は盗んだものに違いないとにらんだのです。さらに、この人物を周辺捜査すると、過去にさまざまな悪事を働いていたことが分かり、証拠を固めて逮捕したのです。修行僧は盗み目的で大円寺に忍び込み放火したことを自供し、処刑されました。

 宣雄はこの手柄でまもなく京都西町奉行に抜擢されました。将来は旗本の最高ポストである江戸の町奉行の候補だったのですが、京都在任中に急死しました。平蔵は父親とともに京都にいて、父から捜査、裁判、部下の用い方などの実務を学び、その後、火付盗賊改方長官になった平蔵が活躍したのです。

 幕府の人事報告書「よしの冊子」に平蔵の働きぶりは神業のようだと書かれています。火事現場に赴いた際、立派な袈裟を着た僧侶と、高級旗本のような立派な衣服の武士が立ち話しているのを怪しいとにらみ、捕らえて調べると2人とも盗賊だったことが判明。また、近隣住民にコメや現金を施し、慕われていた剣術家を怪しいとにらみ、捕らえると盗賊の首領だったというエピソードが多く記されています。今だと見込み捜査と批判されそうですが、こうした勘働きは父親ゆずりなのかもしれません。

 ちなみに「よしの冊子」には、市中見廻りの途中、派手な夫婦喧嘩に遭遇した平蔵が仲直りをさせたことも記されています。小説の鬼平犯科帳で描かれる平蔵も勘働きが鋭く、しかも庶民への思いやりを持っています。史実と小説の平蔵が限りなく一致しているように思えます。
 ちなみに、行人坂沿いに再建された大円寺には、大火で犠牲になった人々を供養する五百羅漢など520体の石仏像などが残されています。

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大火の犠牲者を供養するために彫られた石仏群


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2017年1月20日放送 日本のカタチ

«2017年1月13日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る②」

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