2018年3月30日 (金)

2018年3月30日放送 日本のカタチ「江戸と東京〜人の世は続いている⑤」

3月のテーマは「江戸と東京~人の世は続いている」です。

3月30日放送では「情報伝達 瓦版と新聞」についてお話します。

 

時代劇や時代小説で瓦(かわら)版が登場することがあります。今の新聞のルーツです。現存する瓦版で最も古いものは、豊臣家が滅亡した大阪夏の陣を伝えたものです。その後、地震などの災害をいち早く伝えました。心中事件もよく伝えられました。しかし、瓦版で心中事件が報道されると、後追い心中を図った事件が増え、幕府は心中報道を禁止しました。幕府は出版物に対しては厳しい検閲を行っていましたが、瓦版は事実上、検閲の網をくぐって売っていたようです。そのため、瓦版を売る人は、素顔が見えないように笠をかぶって売っていました。

私が記者として働いている毎日新聞は、現存する日本の新聞で最も長い歴史を持っています。明治5(1872)年2月21日、毎日新聞の前身である東京日日新聞が創刊されました。創刊に携わったのは戯作者(大衆小説家)、浮世絵師、貸本業者の3人です。

 「読まれてなんぼ」の世界に生きる大衆小説家は大衆の欲望に敏感であり、商家から依頼されて広告文、今で言うキャッチコピーも書いて収入を得ていました。浮世絵師は風俗、美女、名所をビジュアルに伝え、描いた美女が大衆のアイドルとなりました。江戸時代、本は高価だったため、貸本業者による貸本の宅配サービスが主流でした。顧客を回って「どのような本が求められているか」といった読者ニーズを探って作家や出版元にフィードバックしていたので、新刊本の企画担当のような役割も担っていたのですね。

 江戸の情報産業の最前線にいる3人が近代新聞の創生に携わったのです。東京日日新聞の創刊号は木版刷り。1部140文。前年の明治4年に新通貨「円」が誕生したのですが、庶民はまだ江戸の通貨を使っていました。ちなみに140文は現在の2000円前後に相当します。かなり高いですね。新聞は貸本屋にも置かれていたというので、レンタルで回し読みされていたようです。

 東京日日新聞の編集責任者で社長だったのは、福地源一郎。長崎奉行所でオランダ語通詞(通訳)をしていた幕府の役人でした。彼は、東京日日新聞の社長になる前、「江湖新聞」という新聞を明治元(1868)年4月に発行し、明治政府を徹底的に批判し、投獄された経験もあります。

 明治維新前後に発行された主な新聞では、「中外新聞」(創設者=幕府開成所頭取、柳川春三)、「郵便報知新聞」(創設者=幕府勘定奉行、栗本鋤雲)、「朝野新聞」(創設者=幕府外国奉行、成島柳北)などがあります。

 各新聞の創設者の前職に共通性がありますね。徳川幕府の幕臣だった人たちです。東京日日新聞の福地源一郎もそうです。彼らは江戸城から徳川将軍を追い出した薩摩、長州に対して「田舎侍に政治や行政が出来るものか」と批判的でした。武力で薩摩、長州に敗れたが、これからは言論で戦う、との意気込みで新聞を創刊したのです。その理念は、後に自由民権運動につながっていきました。

 さて、この番組とブログは今回が最終回です。2015年1月にスタートして3年3カ月。私自身、これほど長期にわたってお話できたことに驚いています。リスナーの皆様のこれまでのご支援に感謝申し上げます。ありがとうございました。


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2018年3月30日放送 日本のカタチ


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2018年3月23日 (金)

2018年3月23日放送 日本のカタチ「江戸と東京〜人の世は続いている④」

3月のテーマは「江戸と東京~人の世は続いている」です。

3月23日放送では「貴重な情報を伝える 飛脚と旗振り通信」についてお話します。

 

株の購入など投資でいかにもうけるかは、時間との勝負でもあります。今はインターネットで1秒単位の情勢をつかみ、買うか、売るかの判断をする時代になりました。江戸時代、証券取引所はありませんでしたが、株式市場のような機能を持っていたのが、大阪・堂島の米市場です。コメを売買する市場は、江戸、京都、大津、下関などにもあったのですが、最大の市場は大阪です。大阪は全国の米価の基準だったのです。

 江戸時代、農民の年貢はコメで納められ、武士への給料もコメで支払われていたので、どれだけのコメと交換できるかで江戸時代の通貨の価値も決まりました。ですから大阪のコメ市場の相場が重要な情報でした。大阪のコメ市場では、現物取引のほかに、世界初の先物取引も行われました。

 先物取引は現在の時間で午前8時に市場が開き、午後2時に終了。現物取引は午前10時に始まり、正午に終了しました。いかに早くコメの価格に関する情報を手に入れるか。そこで生まれたのが「旗振り通信」です。見晴らしのいい山頂などの中継点で手旗を振り、それを望遠鏡で確認して次の中継点に伝え、それをリレーしていきます。推測ですが、大阪の情報が和歌山まで3分、京都まで4分、岡山まで15分、広島まで25分で届いたようです。

 ただし江戸までは8時間ほどかかりました。というのも、箱根の山に遮られていたからです。箱根の手前で旗振り通信の情報を受け取った業者が、情報を紙に書き留めて、飛脚を走らせ、箱根の山を越えました。

 相場は値動き、つまりどれだけの金額が上がったか、あるいは下がったか、という情報が重要です。そのため、旗の振り方も複雑です。旗振り通信も営業ですから、他人に情報を盗み取られてはダメです。そのためかなり暗号めいた旗振りだったようです。

 ただし、雨が降ったりして天候が悪いときは、旗振り通信は役に立ちません。このときは早飛脚で相場を伝えました。

 旗振り通信のほか、伝書鳩も使われました。これは大阪と大津の米市場間の通信だったようですが、鳩の足に相場情報を記した紙をくくりつけて飛ばしました。

 もっとも幕府は、旗振り通信や伝書鳩の通信を禁止していました。公式には飛脚による通信しか認めていませんでした。お触れにこれら通信のことを「手品仕形」による合図、と書いています。手品のような怪しいやりかたの通信ということです。重要な米相場の情報だけに、旗振りが中継されていくうちに間違った情報にならないか、神経を尖らせていたようです。

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2018年3月23日放送 日本のカタチ


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2018年3月16日 (金)

2018年3月16日放送 日本のカタチ「江戸と東京〜人の世は続いている③」

3月のテーマは「江戸と東京~人の世は続いている」です。

3月16日放送では「居酒屋、天ぷら屋……江戸の外食」についてお話します。

 

まず、居酒屋という言葉の語源からお話しましょう。「居ながらにして飲める酒屋」ですね。江戸時代、酒の量り売りをしていた酒屋で、その場で酒を飲ませるようになりました。当初は立ったままの立ち飲み。やがて茶店の長い腰掛けのようなものを出して、そこで座って飲めるようになりました。これが居酒屋です。

 酒だけではなく、肴もつまめる居酒屋の第一号は宝暦年間(1751〜64年)、神田・鎌倉河岸(現在の内神田)の豊島屋という酒屋でした。田楽を一緒に売り始め、仕事帰りに一杯ひっかけて肴もつまむ、というスタイルは大評判になりました。やがて寛政年間(1789〜1801年)には、煮売り酒屋が誕生しました。もともと煮売り屋という商売がありました。これは、飯と惣菜を売る定食屋兼テイクアウトの店でしたが、酒も飲ませるようになったのです。

 しかし、酒と肴が出るようになっても、居酒屋店内にはテーブルと椅子はありませんでした。土間に細長い縁台が並んでいただけ。料理もお盆に載せて縁台に置かれていました。江戸の人々は茶店で団子を食べるようなスタイルで酒を飲んでいたのです。時代劇ではテーブルと椅子がありますが、これは演出効果を狙ったものです。

 酒の値段は、江戸後期で上方のおいしいお酒が1合40文(800円)。酒3本につまみを2皿注文すると今の感覚では5000円ほどでしょうか。現在の新橋の居酒屋と比べると割高だったのです。

天ぷら屋も江戸で評判でした。1700年代半ばに屋台で登場しました。今では高級料理になりましたが、江戸ではファストフードでした。ただ、天ぷらというのは、エビ、アナゴ、白魚、イカ、貝柱、ハゼなど魚介類のことを言います。野菜の天ぷらは「天ぷら」とは言いませんでした。野菜を材料にしたのは「揚げ物」「精進揚げ」と呼んで区別していました。

 さらに、上方では魚のすり身を油で揚げたものを「天ぷら」と呼んでいました。今で言えば、さつま揚げのようなものでした。江戸の魚介類の天ぷらは竹串にさして揚げていました。1本4文(80円)から6文(120円)程度。手頃なファストフードでした。


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2018年 3月16日放送 日本のカタチ
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2018年3月 9日 (金)

2018年3月9日放送 日本のカタチ「江戸と東京〜人の世は続いている②」

3月のテーマは「江戸と東京〜人の世は続いている」です。

32日放送では「愛煙派vs嫌煙派 400年に及ぶ論争②」についてお話します。

 

先週は、幕府のタバコ禁止令が形骸化していったことをお話しました。一方で、一般社会では禁煙論を展開する嫌煙派もいたのです。これに対して、そんなことはない、と愛煙家が反論しました。江戸時代の喫煙・禁煙論争を紹介しましょう。


<嫌煙派>
・江戸時代のベストセラー健康本「養生訓」(1712年、福岡藩の儒学者・貝原益軒の著書)に、タバコは健康に悪いと書いている。
・タバコは中国からではなく、南蛮(西洋)からもたらされたもので、西洋の習慣に染まるのは害がある。
・酒、茶、タバコは身分の上下、金持ち、貧しい人にかかわらず、嗜好品になっている。酒は適量は薬。茶は喉の渇きを潤し、臓器を休める効果がある。タバコは害しかなく、カネの無駄遣い。
・くわえタバコの姿は見苦しい。今時の若い者がキセルをもてはやすのも見苦しい。タバコの灰を着物に落として穴をあけるし、火事の原因にもなる。灰皿から灰も飛び散り、家を汚す。
・タバコを吸っている間は、仕事をしないのであるから、サボっている。時間のムダだ。

これに対して、愛煙派は反論します。

<愛煙派>
・タバコは健康に害があるというが、その根拠は何か? どんな病気になるのか?
・タバコは南蛮から伝えられたから良くない、というのであれば、同じく南蛮からもたらされた砂糖も良くないのではないか。
・タバコは仕事で疲れたひと時に、吐き出す煙の向こうに富士山の景色を想像して心をなごませ、リフレッシュさせてくれる。時間のムダではないし、さぼっているわけではない。
・カネの無駄遣いというが、タバコの吸いすぎで破産した人なんて聞いたことが無い。
・タバコの匂いは野犬や狼を遠ざけて、一人旅では安全だ。
・そもそも、タバコを吸ったことのない人が禁煙論をぶちあげている。彼らの主張は所詮、空論だ!

今でも聞いたことのあるような喫煙、禁煙の主張ですね。400年近く、ずっと同じような主張が繰り広げられてきたわけです。

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2018年3月9日放送 日本のカタチ


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2018年3月 2日 (金)

2018年3月2日放送 日本のカタチ「江戸と東京〜人の世は続いている①」

3月のテーマは「江戸と東京〜人の世は続いている」です。

32日放送では「愛煙派vs嫌煙派 400年に及ぶ論争①」についてお話します。

 

受動喫煙対策の法整備が進んでいます。江戸にも禁煙論争がありました。今回はその1回目です。


日本にタバコが入ってきたのは、16世紀末。ポルトガルから伝来しました。文献に残る、タバコと出会った最初の有名人は徳川家康です。関ヶ原の戦いの翌年、1601年、スペインから来日した修道士(ヘロニモ・デ・ヘスス)が家康に面会しました。当時は1587年に豊臣秀吉が命じたキリスト教の禁止措置が残っていて、キリスト教を布教してきたスペインは貿易で日本と仲良くしましょうとの趣旨で修道士を派遣したのです。しかし、面会の当日、家康は病に伏せっていました。修道士は多数の土産物と一緒に、タバコを原料とする薬と、タバコの種子を家康に献上しました。このとき、家康はタバコについてあれこれ質問し、お付きの役人に効能や特性を書き留めさせました。


当時のタバコは、細かくきざんだタバコの葉をキセルで吸うものでした。時代劇にもよく登場します。タバコは急速に日本に広まって行きました。一方で、徳川幕府は、早くからタバコの禁煙令のお触れを出しました。その理由は以下の二つにありました。


(ア)乱暴狼藉を働く浪人集団、ならず者といわれた「かぶき者」が徒党をシンボルとして、

   長くて派手なキセルを作らせて。それを着物の帯に挟んで見せびらかせていた。

   反社会勢力を取り締まる目的。

(イ)火事の原因になる。江戸時代の出火原因の第一はタバコの火の不始末か放火。

(ウ)喫煙の普及とともに、コメではなくタバコを栽培する農家が増えた。

   年貢米の確保に幕府は不安を感じた。

幕府によるタバコ禁止令は何度も出されています。つまり、なかなか守られなかったのです。三代将軍・家光の時代には、タバコに課税して収入を得る藩も出始め、タバコを重要な税収とみる風潮となり、タバコ栽培はさらに広まり、幕府の禁止令はどんどん形骸化されていきました。五代将軍・綱吉の元禄年間(1688〜1703年)には自由化されていったのです。税収という魅力があったのですね。


※「かぶき者」とは?
 16世紀末から寛永年間(1640年頃)にかけて、江戸や京都の都市部で流行した社会風潮。派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たち。出雲の阿国が「かぶき者」の風俗を取り入れた「かぶき踊り」を始め、それが後の歌舞伎の原型になりました。喫煙の風俗と密接に関連していました。


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2018年3月2日放送 日本のカタチ


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2018年2月23日 (金)

2018年2月23日放送 日本のカタチ「江戸の暮らしの中で、今に引き継がれているもの④」

2月のテーマは「江戸からあった! 意外なビジネス」です。

2月23日放送では「武家社会の非正規雇用と派遣ビジネス」についてお話します。

 

時代劇では武士が勤務先の城に出勤するとき、供の者を従えて歩く姿がよく見られます。この供の者を中間(ちゅうげん)といいます。武家の奉公人で正式には武士ではありません。給料は1年で2両(20万円程)です。江戸の場合、将軍の家来である旗本、御家人は軍役といって石高(コメでもらう給料)に応じて、中間のほか、槍持ち、鉄砲持ちなど雇わねばならない家来の数が決まっていました。いざという時、家来を従えて将軍のもとに馳せ参じることができるように、常に軍役を整えておかねばなりませんでした。

 しかし、物価が上昇を続ける中、ベースアップのない旗本、御家人にとって常に家来を雇用するのは厳しくなっていきました。しかも天下太平の世の中、もはや戦(いくさ)があるとは誰も思いもしませんでした。一方で外出の際は1人ないし数人の家来を連れて行かねばなりません。そこで外出など必要な時に家来を雇えばいい、という風潮が生まれ、そこで誕生したのが派遣ビジネスです。

 面白いエピソードがあります。江戸時代後期に松平左金吾という火付盗賊改がいました。ある日、部下の与力、同心たちに召集をかけたが、かなりの欠席者が出ました。あとで聞くと、急な外出で供の者の調達が間に合わなかったそうです。それほど彼らの家計は火の車だったのです。左金吾は、早朝に出勤すれば朝食を振る舞うことにして彼らの家計を支えたといわれています。

江戸に滞在する大名も江戸城に登城する際は、駕籠に乗って行列を組んで江戸城に向かいますが、大名の駕籠を担ぐ「陸尺」(ろくしゃく)は派遣業者から派遣された人たちです。陸尺は同じ派遣業者に所属する人が多く、業者内で兄貴分、子分、新人などの格付けがありました。どの大名家も兄貴分の陸尺を派遣してくれと依頼しました。というのも、往来で他の大名家の行列とすれ違う際、しかも同じ家格の大名同士の場合、向こう側の行列の陸尺が、こちらの陸尺よりも格下だと、向こうの陸尺が遠慮して道を譲ってくれたそうです。

また、江戸城の大手門近くでは、大名を乗せた駕籠を担いだ陸尺が走り出す光景も見られたそうです。「あっちの陸尺よりも早く江戸城に到着するんだ!」と競争心をむきだしにして駆けっこしたのです。そのせいで、陸尺が転んで駕籠に乗った大名が路上に放り出されることもありました。でも、陸尺をしかり飛ばしたり、解雇したりすることは難しかったようです。というのも、派遣業者の陸尺は労働組合のようなものを組織していて、大名家にひどい扱いを受けた陸尺がいると、その大名家には二度と陸尺を派遣しない、という強硬手段に出ることができたためです。江戸の派遣社員は強かったのですね。

 


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2018年2月23日放送 日本のカタチ
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2018年2月23日放送 日本のカタチ


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2018年2月16日 (金)

2018年2月16日放送 日本のカタチ「江戸の暮らしの中で、今に引き継がれているもの③」

2月のテーマは「江戸からあった! 意外なビジネス」です。

216日放送では「お互いに知っていても公にできない商売」についてお話します。

 

昔の日本で江戸にしかなかった商売があります。「献残(けんざん)屋」です。将軍家や大名が献上を受けた品々のなかで不要なもの、使いきれないものを「献残」と言います。それらを買い取って再び献上する人に売る商売がありました。現代風に言えば、お中元、お歳暮でいただいた不要なものを引き取ってもらい、代金にかえるようなものです。送り主には内緒ですよね。

   
献残屋が扱ったもので多かったのは、干しアワビ、干し鮑、塩鳥肉、昆布、からすみ、干しナマコ、片栗粉など各地の名産品で保存のきく食料品でした。大名が参勤交代で江戸に到着した際、将軍家、老中らへの献上品で有名だった品々です。あちこちから同じようなものが届くので献残屋で引き取ってもらったわけです。

面白いことに、献残屋が仕入れた品を売った先は、また将軍や老中らに献上する別の大名や旗本でした。大名や旗本にすると、物価が上がり、新しい品を買うことが苦しくなったものの、前例が大切な江戸社会。そこで献残屋から購入したのです。もちろん一度献上されたものなので鮮度は落ちます。こうして献上品は何度か行き来して、安くなって庶民の買うところとなりました。

さすがに幕府は無駄に気づき、天明8年(1788年)、大名から将軍家に献上する品を見直して、役に立たない品や贈る理由のなくなった品は変更するように命じました。

余談ですが、押し売りの元祖といえば「銭さし売り」です。銭は真ん中に穴があいているので、ここに麻の紐、和紙でつくった紐を通して100枚単位にしました。実際には98枚あるいは96枚でしたが、束ねる手数料を差し引いたという意味で、100文として通用しました。この紐を、「銭さし」と言います。消耗品なので大量の銭を扱う両替商や店舗では必需品でした。値段は1本=1文=25円。100本まとめて1束として売っていました。それを主に売っていたのは、武家に奉公する中間、臥煙(がえん)と言われた武家の消防隊員たちです。武家の家計が苦しくなり、奉公人や消防隊員に払う給金が少なくなったため、彼らの内職となりました。かなり強引に売りつけたようで、後に町奉行所は取り締まりを強化しました。


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2018年2月 9日 (金)

2018年2月9日放送 日本のカタチ「江戸の暮らしの中で、今に引き継がれているもの②」

2月のテーマは「江戸からあった! 意外なビジネス」です。

229日放送では「下着もレンタル!?。江戸の珍商売」についてお話します。

 狭い長屋暮らしの庶民は、日々必要なもの以外、家財道具はありませんでした。必要なものがあればレンタルです。そのレンタル業者を江戸では損料屋と言いました。

利用の多かったのが、冠婚葬祭の衣装。長屋の熊さんだって祝い事には見栄を張って羽織をレンタルしました。次に多いのが布団。住まいは見つけたけど、布団を買う金がない場合、とりあえずレンタルです。季節ごとに借りたのが蚊帳、コタツ。こうしてレンタルがはやったのは、大火事が多かった江戸のこと、せっかく買っても焼けてしまう。持って逃げられない家財道具は持たないのが鉄則だったのです。

面白いレンタルもありました。男性下着の褌(ふんどし)です。幕末の文久年間(1860年代初頭)の例で、客は最初に246文(1700円)で新品の六尺褌を購入します。そして何週間かたって汚れたら再び店に行き、60文(420円)を出すと、きれいな褌を貸してくれます。さらに汚れたら60文で借りる。これを繰り返したのです。レンタルだから汚いと思われるかもしれませんが、新品同様だったのです。種明かしをすると、損料屋は貸して回収した褌を染物屋で浴衣柄に染めてもらい、田舎で売ったのです。その代金で新しい褌を購入し、それをレンタルして使い回しました。よく考えたものです。

元祖100円ショップは「十九文見世」。八代将軍・吉宗の時代、繁華街や縁日でむしろを敷き、日用雑貨品、玩具、文房具を並べ、何でも19文(475円)で売り出したところ、大ヒットしました。一番の売れ筋は当時流行し始めていた下駄。粗悪品であってもその日限りの使い捨てとして人気がありました。物価の上昇とともに採算がとれなくなり、1800年ごろには、倍の値段の三十八文見世が登場しました。いかに物価が上がったかがわかります。


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2018年2月 2日 (金)

2018年2月2日放送 日本のカタチ「江戸の暮らしの中で、今に引き継がれているもの①」

2月のテーマは「江戸からあった! 意外なビジネス」です。

22日放送では「外国通貨交換の両替のルーツ」についてお話します。

 

両替とは、「ある種の貨幣をほかの種の貨幣と取り替えること」(大辞林)です。外国通貨同士の交換の意味で多く用いられています。その語源を大辞林で見ると、「各種の通貨が流通していた江戸時代、手数料をとって貨幣を交換していた商人」とあります。

では、各種の通貨とは? 江戸時代、貨幣は金、銀、銭(銅銭)の3種類ありました。金貨は1両小判で有名ですね。銭貨は、寛永通宝で知られ、1文(もん)、2文と数える通貨です。金貨と銭貨は、1両、1文というように、今のお金と同様、額面の金額(計数貨幣)で数えます。しかし、銀貨は重さが単位です。秤ではかる貨幣です。東日本では金貨、西日本では銀貨が使われていました。

江戸と大阪、京都の間でビジネスをする場合、大阪のコメを江戸に送ると、大阪の商人は銀貨で受け取り、コメを買い付けた江戸の商人は金貨で支払います。そのため、両替商が必要でした。ちなみに1両は現在の価値で江戸中期は10万円、江戸後期には8万円ほどです。

幕府は3種類の貨幣の交換レートを決めていました。江戸時代を通じて何度か改訂されましたが、江戸中期には1両=銀60匁(225グラム)=1文銭4000枚がレートです。しかし、実際には両替商で行われる交換レートは、そのときどきの貨幣の質の変化、流通量で上下しました。

流通量は経済の発展度合いによって変動しました。1両小判で金の含有率が一番多かったのは、慶長小判(江戸初期)で含有率は8679%。経済活動が活発になった元禄年間には元禄小判が登場。金の含有率は5736%です。経済が活発になれば、小判の流通量を増やさなければなりません。

しかし金の産出量は一定。そのため金の含有率を減らすことで小判の数を増やしました。その結果、小判の価値は下がり、銀の価値が高くなります。一方、金の含有率を増やして流通量を下げると、小判の価値は上がり、銀の価値は低くなります。そのため江戸と大阪の商取引では、江戸では銀の安いときに注文すれば利益になり、大坂では金の安いときに売りさばくと利益が出ました。今の外国為替取引のようですね。

一方、庶民は金貨、銀貨とは無縁でした。銭で生活していました。110万円だと、1文は25円。酒1升は164文(4100円)、白米1升は50文(1250円)。そば1杯が16文(400円)などです。

要約すると、江戸時代、日本にはまったく異なる通貨が3種類あったのです。今の世界で言えば、円、ドル、ユーロが日本で流通していたようなものです。

 

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2018年1月26日 (金)

2018年1月26日放送 日本のカタチ「『鬼平犯科帳』&時代小説で江戸を楽しく学ぶ④」

1月のテーマは「『鬼平犯科帳』から見える東京21世紀」です。

1月26日放送では「鬼平グルメ」についてお話します。

 

 先週は、「鬼平犯科帳」では盗賊の押し込み先として薬種問屋のことをお話しました。薬種問屋について補足します。

平賀源内という人はご存じですね。静電気のエレキテルの実験をしたことで有名です。この人は長谷川平蔵と同時代の人ですが、薬種問屋の協力を得て東都薬品会という薬の博覧会を開催しました。会場は料理茶屋でした。薬草、鉱物など1300種の見本が出品されました。当時、江戸の薬種問屋は上方の薬種問屋から仕入れていました。博覧会の目的は江戸の業者が直接、産地から原料を仕入れるネットワークづくりでした。それほど薬というのは重要な産業だったのです。いずれにせよ、江戸の製薬業界発展にも平賀源内は貢献したのです。

さて、グルメです。鬼平犯科帳は四季を彩る酒肴、料理がふんだんに登場します。私たちが蕎麦屋で食べる鴨南蛮蕎麦、卵とじそば、かき揚げ蕎麦などは江戸後期に登場したメニューです。屋台も蕎麦、天ぷら、寿司とたくさんありました。ファストフードの原型が江戸にあったのです。屋台文化は、江戸の特徴です。江戸は人工的に開発された都市です。ですから職人が多くいました。男社会です。商家の奉公人も男社会。50万人前後いたといわれる江戸滞在の武士も男社会。人口でも男性の比率が高かったのです。男たちが手軽に食べられるということで屋台文化が花開きました。

さらに、あらゆる食材、味付けした総菜などを売り歩く人たちがいたので、外に出かけなくても自宅で手軽に食事することもできました。

江戸の代表食は蕎麦と言われるほど、蕎麦屋は多く、3600軒前後あったと言われています。ところが、江戸中期まではうどんが主流でした。濃口しょうゆ、つなぎ技術の開発で蕎麦が主流になっていきました。鬼平犯科帳でも最も多く登場する食べ物の店は蕎麦屋です。小説では「一本うどん」も出てきますね。これは実際に江戸にあったうどんです。

小説とは関係ありませんが、東京には幕末創業の居酒屋があります。元は酒屋ですが、酒を売るだけでなく、店内で飲ませるようになり、店内に居ながら酒を飲む、ということで居酒屋という言葉が生まれました。その伝統を受け継いでいるのが台東区根岸にある居酒屋「鍵屋」です。1853年創業。現在の店舗は大正元年築です。創業当時の店舗は「江戸東京たてもの園」(小金井市)に移築保存されています。鍵屋のメニューは昭和24年以来、変わっていません。

拙著「『鬼平犯科帳』から見える東京21世紀」には、江戸の伝統を受け継ぐ蕎麦屋、玉子焼き屋、そして鍵屋のことも書いています。ぜひともご一読いただければ嬉しいです。

 

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2018年1月26日放送 日本のカタチ


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