2017年10月20日 (金)

2017年10月20日放送 日本のカタチ「武士の暮らしから生まれた言葉と習慣③」

10月のテーマは「武士の暮らしから生まれた言葉と習慣」です。

1020日放送では「1日3食のはじまり」についてお話します。

 

 私たちは朝食、昼食、夕食と1日に3度食事をとっています。鎌倉時代以来、武士は1日2食が基本でした。午前8時ごろと、午後4時ごろに食事をとっていました。ただ、コメの量が多かったのです。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、織田信長の家臣だった滝川一益は「人の食べ物は、朝暮れ二合五勺ずつ」と言っています。朝食と夕食合わせて1日五合のコメです。これ以来、徳川幕府も、将軍の家来である旗本や御家人に対して、1日の食費を五合で計算して給料や手当を支給していました。ただし、1日五合は男性の場合で、女性の食費は1日三合で計算していました。

 1日3食になったのは元禄以降と言われていますが、面白い記録が残っています。赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入った後、四つの大名家にお預けになるのですが、大石内蔵助ら17人を預かった熊本藩細川家の江戸屋敷の人が、赤穂浪士の日常の記録をつけていました。そこに赤穂浪士に提供した食事に関する記述があります。現代語訳にするとこんな内容です。①料理は朝と夕、二汁五菜。②昼に茶菓子。③夜食は一汁三菜、あるいは粥か奈良茶漬け。奈良茶漬けというのは、江戸時代にヒットしただし汁のお茶漬けです。注目すべきは、朝食、夕食、夜食と3度の食事を出していたことです。

 大石内蔵助らは1日3食のごちそうに対して、ありがたいことですが、食事の量を減らしてもらえませんか、と懇願したほどです。

 内蔵助の息子、大石主税らが預けられた愛媛県松山藩の江戸藩邸では、日中は料理を3度出して、夜食も出したそうです。こちらは1日4食ですね。いずれにせよ、どの大名も預かった赤穂浪士を丁重にもてなしたわけです。江戸学の祖といわれる時代考証の専門家、三田村鳶魚は、赤穂浪士がお預けになった時の食事が1日3食の根元をなす、と書いています。記録に残る最初の1日3食という意味でしょう。

 1日3食が普及していくと食事時間は午前8時、午後2時、午後5時が目安でした。夕食が早いですが、現代人のように夜更かしはトレンドではなかったのですね。
 ちなみに、江戸時代の武士の給料はコメが基本です。玄米で支給していました。というのも白米を食べるのは、戦時体制のときという戦国時代以来の伝統があるからです。平時においては玄米でした。その名残です。

 江戸時代前期の大名で彦根藩の二代目藩主、井伊直孝は「我らは黒米(玄米で黒い色素のある品種)を食べるが、部下には白米を何度でも食べさせろ」という家訓を残しています。いざという時に白米のごちそうを食べて、大いに働いてもらおうという趣旨です。ただ、時代が下るにつれて、万事がぜいたくになってくると、江戸では町人も武士も玄米を精米して白米を食べるようになりました。

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大石内蔵助ら17人がお預けになり、
切腹した庭が熊本藩細川家の屋敷跡の一角に保存されている

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大石内蔵助らが切腹した細川家屋敷の庭

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2017年10月13日 (金)

2017年10月13日放送 日本のカタチ「武士の暮らしから生まれた言葉と習慣②」

10月のテーマは「武士の暮らしから生まれた言葉と習慣」です。

1013日放送では「奥様って誰のこと?」についてお話します。

 最近はあまり聞かれないようですが、「奥さん」という言葉があります。○○さんちの奥さん、なんて言っていましたよね。語源は「奥の方に住む人」から来ています。旗本や大名の屋敷は一般的に、主人や家臣たちが暮らし、仕事をするエリアを「表」と言いました。主人の妻、世話をする女性たちが暮らすエリア、つまり女性ばかりの区域を「奥」と言いました。奥に住む代表者、旗本屋敷であれば旗本の妻が「奥様」なのです。江戸城には「大奥」というエリアがありますが、ここも将軍の妻をはじめとして女性たちが暮らしていました。

 「表」と「奥」が分かれている屋敷は、大名屋敷や旗本屋敷に限られています。ですから「奥様」は江戸時代、旗本以上の身分の妻に限られた呼称です。余談ですが、鼠小僧次郎吉は大名屋敷、旗本屋敷を専門に忍び入った盗賊です。しかも「奥」のエリアに侵入して金品を盗みました。男たちは「奥」のエリアに入ることができないため、もし女性たちに見つかっても、逃げおおせるという武家屋敷の盲点に目を付けたのです。

 旗本より下の武士の妻は何と呼ばれていたか。将軍の直属の家来という点では旗本と代わりませんが、将軍にお目見えする資格のない御家人の場合、妻は「ご新造様」と呼ばれていました。架空の人物ですが、御家人の代表格、時代劇「必殺仕事人」に登場する中村主水も妻は「ご新造様」です。身分によって呼び方が違っていたのです。

 ちなみに、夫の方は、旗本も「殿様」と呼ばれていました。御家人の主人は「旦那様」です。奥様と殿様はワンセットの呼称だったのです。

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武士がいる「表」の部屋。
女性は入ってこなかった
(島根県松江市内に保存されている武家屋敷)


 せっかくなので、江戸時代の妻の呼称をもう少し詳しく見てみましょう。将軍の妻は「御台所(みだいどころ)」、徳川一門の御三家と御三卿の妻は「御簾中(ごれんじゅう)」、一般大名の妻は「奥方」、旗本の妻は「奥様」、御家人の妻は「ご新造様」、さらに低くなると「ご新造」と呼んで様を付けませんでした。武士を得意先としている商いの人たちも、こうした区別をしっかりと頭に入れて屋敷を回って商売をしていました。

 ちなみに町人の場合は妻のことをどう呼んだか? おかみさんです。
 夫婦の話のついでに、ちょっとしたエピソードです。旗本や御家人は幕府の規則で家来を雇うことを義務づけられていました。収入に応じて何人雇うかが決まっていました。外出するときも3人前後の家来を同行させなければなりませんでした。しかし、雇うほどの経済的ゆとりがなくなっていきました。同行の家来もいなくなりました。そういう状況で夫婦そろって外出すると、妻がお供の奉公人のように見られかねません。夫は気の毒に思って妻を連れて外出することを控えていたといわれています。どうしても夫婦で外出しなければならない場合、離れて歩いて、傍から見ると他人同士のように歩いたそうです。妻の体面を重んじるのも武士だったのです。

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中村吉右衛門さん主演の時代劇
「鬼平犯科帳」に登場する役宅
(京都市内の松竹撮影所)


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2017年10月 6日 (金)

2017年10月6日放送 日本のカタチ「武士の暮らしから生まれた言葉と習慣①」

10月のテーマは「武士の暮らしから生まれた言葉と習慣」です。

10月6日放送では「鞘(さや)当ての語源」についてお話します。

 

「恋の鞘当て」という表現があります。一人の女性を巡って2人の男性が争うことですね。鞘というのは、刀を収納する部分のことです。武士が路上ですれ違う時に、鞘同士が触れあうこと状況が鞘当てです。刀は武士の魂、いわばアイデンティティです。鞘当てはそのアイデンティティに挑戦する、無礼な行為と受け止められていました。往々にして修羅場に発展しました。

実例を挙げましょう。1630年のことです。前田利家の孫・前田肥後ら一行が橋の上を歩いていた時、前方からやってきた武士の一団が歩いてきて、すれ違いざまに双方の鞘と鞘がぶつかった。前田肥後が扇子で相手の肩をたたいた。すると相手は逆上して刀を抜き、それを合図に双方が入り乱れて壮絶な斬り合いになりました。1655年には会津藩の領内で藩士の侍の鞘に、町人の体が触れました。縁日で人が多かったためです。その場では、何事もなかったのですが、侍の腹の虫は収まりません。後を付けて町人の自宅に押しかけました。売り言葉に買い言葉。口論のあげく侍は町人の右腕を切りつけました。こんな刃傷沙汰は数多くあったようです。意地と意地のぶつかりあいです。

 歌舞伎でも遊里を舞台に、一人の女性を巡って2人の武士が「彼女はおれが指名した」「いや、俺の方がなじみだ」と言い争ううちに、鞘と鞘が当たり、大変な騒ぎになるというものがあります。

鞘当てを回避するため、武士は道の左側を歩くようにしていました。刀は腰の左側に差しているので、双方が左通行だと鞘当ては起きません。

余談ですが、明治になって刀を差して歩く武士はいなくなりました。一方、人力車が多くなりました。明治14年、警視庁は「人力車が行き会った場合、双方左によける」という通達を出しました。それをきっかけに車両は左側通行になって現在に至っています。武士の争いを防ぐための左側通行は、車両の事故を防ぐための左側通行になったわけです。

 ちなみに、刀を語源とした言葉は多くあります。「相槌を打つ」。これは、刀の鍛冶師が刀を打って鍛えるときに槌を使うのですが、師匠が槌で打つ合間に弟子が打つ。ここから相手の話に合わせて受け答えしたり、うなずいたりする、という意味になりました。一方で、師匠と弟子の呼吸が合わないと、槌を打つ音が「トンチンカン」とずれて響きました。ちぐはぐという意味の「とんちんかん」の語源です。

 「折り紙付き」。折り紙とは紙を横半分に折った文書のことで、刀剣の鑑定書として使われるようになり、そこから品質を保証されている物を折り紙付きと言うようになりました。「やさぐれる」。やさは鞘の逆さま言葉。刀の刀身を入れる収納ケースが鞘でしたね。これが転じて、やさは家の意味になり、ぐれるは外れるという意味です。ここから家出することを「やさぐれる」と言うようになりました。

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路上で武士がすれ違いざま、
刀の鞘が触れあうと大変なことになった
(京都・東映太秦映画村で)

 

※(参考文献)

「増補版 江戸藩邸物語 戦場から街角へ」(氏家幹人著、角川ソフィア文庫)


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2017年9月29日 (金)

2017年9月29日放送 日本のカタチ「サラリーマン組織から見る江戸の武士⑤」

9月のテーマは「サラリーマン組織から見る江戸の武士」です。
  9月29日放送では「忖度が生まれる土壌」についてお話します。


 今年は「忖度」という言葉が流行しました。役所の官僚や首相官邸の幹部が、首相の意向を推測して、首相が喜ぶような行政手続きを進めていたのではないか、ということがニュースになりました。これが忖度です。

 国会で与党が圧倒的多数を占め、野党の力が弱い。かつては各省庁が決めていた官僚人事ですが、今は官僚の人事権は官邸が握っています。いわゆる「一強政治」ですね。実際に忖度があったかどうかは、国会の質疑でも確証は出ていませんが、組織のトップに権力が集中すると、部下はトップの意向を忖度しやすくなる傾向にあります。結果を出せと社長がハッパをかけると、帳簿をいじって業績が上がったように見せかける不正会計に陥った企業もあります。

 江戸時代、そんな状況になったのが五代将軍・綱吉の時代です。四代将軍までは徳川家康の子供、その子供と将軍職を継いだのですが、四代将軍・家綱には世継ぎがいませんでした。このため家綱は弟の館林藩主・徳川綱吉を養子にして、五代将軍に指名しました。つまり、綱吉は外から江戸城に入って、将軍になったわけです。この時期になると、幕府の体制は固まり、政治は基本的に老中、若年寄といった政治に慣れた人たちに任せておけば良かったのです。

 ところが、綱吉は張り切ったのです。老中という要職にある人たちをよく知りません。そこで館林藩から信頼のできる部下を連れてきて旗本に登用しました。その中から側用人というポストが生まれました。側用人は将軍と老中ら幕閣を取り次ぐ役目。老中は側用人を経なければ、将軍に会えません。将軍は側用人を通じて老中らに指示を出します。こうなってくると、老中も側用人に一目置かなければなりません。会社で社長室、秘書室のポストが重要なのと同じです。

 綱吉は次々と政策を打ち出します。今で言うと独裁政治に近い。忠臣蔵で浅野内匠頭の切腹を即座に決めたのは綱吉です。通常であれば、大名の監察官である大目付の取り調べ、最高裁判所である評定所で審理して、将軍にお伺いを立てるのですが、その手続を経ていません。綱吉が審理無用と切腹を即決したのです。これも側用人を通じて伝達されました。周囲の人たちは「将軍は相当に怒っているな。浅野に腹を立てているな」とピリピリするのです。

 浅野内匠頭は、今の新橋付近にあった田村右京大夫の屋敷に移されて、屋敷の庭で切腹します。庭での切腹は検視役に来た大目付が指示しました。ところが、幕府から派遣された部下の多門伝八郎が「庭先で切腹させるとは、大名に失礼」と抗議します。通常、大名の切腹は座敷で行っていたからです。この抗議は幕府上層部にも伝わり、庭先で切腹させた大目付を処分したとのことです。将軍の怒りを忖度しすぎたのですね。

 ちなみに多門伝八郎は日記に、庭先の切腹に抗議したこと、赤穂藩江戸藩邸の武士に特別に許可を与えて、浅野内匠頭に面会させたことなど、浅野家に同情的な姿勢を貫いたことを自伝に書いています。自伝が書かれたのは、赤穂浪士の討ち入り後のことのようです。赤穂浪士を正義の味方と持ち上げる世論が沸騰し、綱吉は赤穂浪士に切腹を命じるとともに、被害者である吉良家を取り潰しました。多門伝八郎も「アンチ吉良家」の世論に忖度して、自らの行為を美談にしたい思惑があったのかもしれません。

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浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られている泉岳寺

 

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2017年9月22日 (金)

2017年9月22日放送 日本のカタチ「サラリーマン組織から見る江戸の武士④」

9月のテーマは「サラリーマン組織から見る江戸の武士」です。

9月22日放送では「組織を守る要職」についてお話します。

 

季節外れですが、忠臣蔵からサラリーマン群像を描いてみましょう。組織に生きる武士と現代サラリーマンの姿がだぶって見えてきます。播州赤穂の浅野内匠頭が吉良上野介を江戸城松の廊下で切りつけました。理由については諸説あります。

 一つは接待費用削減説。浅野内匠頭は朝廷からの使者を接待する勅使供応役に任命されました。内匠頭はその18年前にも同じ役目を経験しました。1回目に浅野家が負担した接待の費用は400両。1両10万円として4000万円。2回目は経済成長著しい元禄時代。インフレが進んでいました。数年前に供応役を務めた大名家に問い合わせると1200両つかったという。内匠頭は700両ぐらいでやればいいと指示した。ところが指導役である吉良上野介は例年に比べて見劣りするからよろしくない、と言う。でも内匠頭は700両で通した。そこから両者に行き違いが生じたという説です。

 朝廷の使者を迎える接待など一連の儀式を指導する吉良上野介には、指導を受けることに感謝する献上品を添えてあいさつするしきたりになっていました。賄賂という認識は、当時はなく、指導料という感覚でした。当時の尾張藩士が見聞した日記にこんなくだりがあります。赤穂藩の江戸家老は指導料を事前に贈ることを提案しましたが、内匠頭は「終わってからでいい」と言う。

 いずれにせよ、カネが絡んだ感情のもつれだったかもしれません。ただ浅野家では認識が甘かったといえます。当時の五代将軍・綱吉は儀式を大事にする将軍でした。このため朝廷の使者の接待役を仰せつかった大名家の江戸藩邸では、将軍の意向を忖度して、儀式に相応の予算をつけて、万事しくじりがないようにしていました。殿様が節約を指示しても、江戸藩邸の責任者は平伏して「承知しました」と言いながら、実際には殿様の意向を無視して事を進めたりもしました。そうした役割を担ったのが、江戸藩邸の留守居役という武士です。今で言えば、外交官です。浅野内匠頭と吉良上野介の関係を円滑に保つのも留守居役の仕事です。今の会社組織で言えば、株主総会を円滑に進めて経営陣のメンツを立てる総務部長に似ています。

 内匠頭の刃傷事件は、赤穂藩の江戸藩邸の留守居役、さらに実務の総責任者である江戸藩邸の家老にも責任がありました。切腹した浅野内匠頭の遺体は泉岳寺に埋葬されましたが、江戸藩邸の家老は埋葬に立ち会ってもいません。江戸藩邸という会社組織での人事の失敗だった、とも言えます。

Photo
浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた松の廊下の跡
(皇居東御苑内)


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2017年9月22日放送 日本のカタチ

2017年9月15日 (金)

2017年9月15日放送 日本のカタチ「サラリーマン組織から見る江戸の武士③」

9月のテーマは「サラリーマン組織から見る江戸の武士」です。

9月15日放送では「武士の定年は何歳?」についてお話します。

 

日本のほとんどの企業は定年を設けています。だいたい、60歳で定年。ただし、再雇用で65歳まで働けるシステムです。江戸時代、武士は何歳まで働いていたのでしょうか?

 意外なデータがあります。江戸の旗本の役職と年齢を分析した「江戸の旗本事典」という本があります。それによると、1800年前後、70歳~79歳の旗本が145人、80歳以上は35人の旗本がいたそうです。また役職者に限って調べたものに、1834年の記録もありますが、70歳以上の旗本で現役の幕府役人は50人いました。1850年当時の記録では、最高齢の旗本が100歳。しかも、江戸城の西ノ丸留守居役という役職についていました。さほど仕事のない役職ですが100歳で現役。その前の1834年には、84歳の旗本が八王子千人同心と呼ばれた部隊などを監督する槍奉行を務めています。これも名誉職のようなものですが、すごいですね。幕府には高齢者向けの隠居前の役職もあったのです。

 いったい、武士の定年は何歳だったのでしょうか? 結論から言うと、旗本に定年はありませんでした。病気ではなく、体力的にしんどくなったという老齢による引退は、本人が申し出ることにより70歳以上で認められました。元気であれば80歳、90歳でも働けたのです。全国的に見ると、大名に仕える地方の武士の場合、隠居年齢の基準は大名家によって違いがありましたが、比較的高齢でした。長生きして奉公するのが武士道だったのです。

 70歳以上というのは、中国の儒学の教典「礼記(らいき)」で「70を老いという」と70歳を老いの定義にしたところから来ていると言われています。

 70歳以上で引退するにしても、手続きが面倒でした。まず引退する理由を書いて、旗本の身上書といわれる由緒書き(家系や履歴などを記した文書)、あとを継ぐ者の名前などの書類を上司に提出。審査を経て認められれば、引退する本人と相続人が江戸城に登城して、引退してもよいと申し渡されて落着です。引退が認められれば、幕府に隠居お礼といって献上品を差し出しました。一方で、引退後は隠居料という今の年金に近いものが支給されました。

 ただ、病気が理由の場合は、40歳以上で引退することができました。
 江戸時代はさまざまな病気による、乳幼児や青年期の死亡率が高かったのですが、20歳以上になると意外と長寿社会だったようです。江戸の町奉行から大名に出世した大岡越前守忠相の場合、大名になったのが72歳。亡くなる75歳まで生涯現役でした。

 ただ黒船が来て、幕府が国の防衛に目を向け始めると、引退年齢を50歳に引き下げます。50歳以上の役職者を引退させて、軍備増強のため旗本の若返りを図ったのです。

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皇居東御苑。
本丸など幕府の中枢で大勢の旗本が勤めていた。
幕末の火事で本丸は焼失した


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2017年9月15日放送 日本のカタチ

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2017年9月15日放送 日本のカタチ


2017年9月 8日 (金)

2017年9月8日放送 日本のカタチ「サラリーマン組織から見る江戸の武士②」

9月のテーマは「サラリーマン組織から見る江戸の武士です」

9月8日放送では「武士の勤務時間」についてお話します。

 

江戸の武士は職種によって勤務時間は異なるのですが、江戸城の勤務を探る前に、徳川将軍の1日をみてみましょう。
 将軍は明六つ(午前6時頃)に起床です。洗顔や歯磨きをして、午前8時朝食。朝食の間に将軍の髪の毛の手入れを担当する武士に髪を結ってもらい、顔や月代を剃ってもらいます。午前9時、大奥の仏間に行き、御台所(正室)とともに歴代将軍の位牌を拝みます。その後、大奥の女中らに「朝の総触れ」というお目見えをします。午前10時から正午まで自由時間。学問や剣術の稽古などをして過ごします。

 正午に昼食をとった後、公務です。主な仕事は老中から回ってくるお伺いの各種書類に決裁します。そうした公務が午後2時ぐらいまで。もっとも書類が多い時や、老中との協議が必要なときは、執務時間は遅くなります。

 こうした将軍の1日に合わせるかのように、江戸城に勤務する人たちの勤務時間も決まってきます。政治の責任者である老中の場合、午前10時に江戸城に来て、午後2時には帰っていました。

 江戸城に勤務する一般の役人、全員武士で旗本か御家人ですが、事務作業をしている人たちもだいたい10時から午後2時前後の勤務です。しかも2日出勤して1日休みというパターンです。奥右筆といって幕府の文書を扱う人は忙しかったようですが、全般に時短勤務です。職種によっては3交代制で宿直勤務もありました。

 ただ、幕府の財務大臣にあたる勘定奉行は別で、午前4時ごろに出勤したようです。膨大な書類に目を通して打ち合わせ。その後、午前8時から仕事に取り掛かります。とにかく幕府の領地に関する税金、訴訟などの事務作業が多く、早朝出勤しないと夕方には帰れない。今の会社でも早朝出勤を奨励するところが多くなりました。働き方改革の一環として、夜の残業はやめよう、早朝出勤したら会社が朝食を出す。これに似た勤務ですね。

 時短勤務だけではありません。江戸城の役職についている人、勘定奉行の場合、3〜5人いたのです。月番制といって、今月働けば来月は非番。町奉行もそうです。北町奉行、南町奉行の2人体制。よく、江戸の北半分と南半分で分けていたと勘違いされることもありますが、月番制なのです。今月は北町奉行所が開いて訴訟を受け付ければ、来月は南町奉行所が担当する、といったものです。

 幕府としては、一人に権限を集中させないため、相互監視の意味も込めて要職に就く人を複数制にしていた側面もありますが、ワークシェアリングという側面もあります。

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二重橋を望む皇居前広場。
江戸時代、老中ら幕府の要職にあった大名の屋敷があった

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2017年9月8日放送 日本のカタチ

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2017年9月 1日 (金)

2017年9月1日放送 日本のカタチ「サラリーマン組織から見る江戸の武士①」

9月のテーマは「サラリーマン組織から見る江戸の武士」です。

9月1日放送では「大名屋敷の従業員規則」についてお話します。

 

 

今は働き方改革という言葉がキーワードになっています。残業時間を減らして、長時間労働を是正する。労働者の4割を占めるに至った非正規社員の待遇を改善する。ライフスタイルの中に仕事を位置づける。プレミアムフライデーもそうですね。江戸の武士の職場は今のサラリーマン組織に似ています。江戸のサラリーマン事情を探ります。

 1回目は江戸の大名屋敷(江戸藩邸)のお話です。江戸時代、全国には275人前後の大名がいました。参勤交代の制度があったため、大名は国元で1年過ごし、翌年は江戸で暮らす、という生活を繰り返していました。江戸で暮らすために設けられたのが大名屋敷、いわゆる江戸藩邸です。

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幕末に外国人が撮影した江戸藩邸

江戸藩邸には、実務の最高責任者である江戸駐在の家老をはじめ、江戸に常勤する武士が多くいました。大名の世話をするだけではありません。幕府や他大名家との付き合い、交渉ごとも多く、今で言うと都道府県の東京事務所のような存在です。藩邸には塀の内側には居住スペースの長屋が設けられていました。駐在する武士たちの官舎です。大名の参勤交代のお供をして江戸に来た武士も多く、出張者用の長屋で暮らしました。

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墨田区の旧安田庭園の外観。
江戸の大名屋敷だった


 出張者にとっては花のお江戸。遊びたくもなります。でも、「あそこの大名家の藩邸の侍は遊び回っている」「遊郭に通い詰めている」など風評が立てば、大名家の面目は丸つぶれ。ですから、細かく規則を設けていました。どの藩邸も今の時間で午後6時ごろを門限と定めていました。外泊はもちろん禁止。

 外出しても「物見遊山はダメ」「茶屋、銭湯に行っては行けない」といった規則があるから、これでは江戸見物もままなりません。藩邸の生活にも規則がありました。「長屋でのばくちは御法度」「縁の下にゴミを捨ててはいけない」などです。

 「江戸藩邸物語」という本がありますが、そこには面白い規則を紹介しています。現在の福島県にあった守山藩の藩邸の記録です。酒に酔ってのもめ事を防ぐため、酒の購入は藩邸が一括購入し、藩邸内の台所で武士たちに売る規則をつくりました。あわせて、お互いに飲酒を強要してはいけないと通知し、武士が飲む酒の量をコントロールしていました。ところがその後、酒屋を藩邸に入れてはならないとの規則を定めました。これでは、さすがに不満が出ます。そこで藩邸の人間が同伴する場合は、酒屋を入れてもいい、と制限を緩めました。

守山藩のある武士が勤務中には酒を飲まないことを誓う誓約書の提出を命じられました。酒で問題を起こしたのでしょう。いずれにせよ、守山藩では酒をめぐるサラリーマンドラマが展開されていたのでしょうね。

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旧安田庭園に入ると、
大名屋敷にあった庭園をしのぶことができる



※(参考文献)
「江戸藩邸物語 戦場から街角へ」(氏家幹人著、角川ソフィア文庫)

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2017年9月1日放送 日本のカタチ

 

 

2017年8月31日 (木)

2017年8月25日放送 日本のカタチ「隅田川の橋④」

8月のテーマは「隅田川の橋」です。

8月25日放送では「幻の万国博覧会をしのぶ勝鬨橋」についてお話します。


 江戸から東京に変わって隅田川に次々と橋が架けられました。今日はその一つ、勝鬨(かちどき)橋のお話です。勝鬨橋は1933年着工、1940年に完成しました。日本に現存する数少ない可動橋で、大型船が通るときは橋の車の交通を止めて橋を跳ね上げるものです。もっとも1980年以後、可動橋にはなっていません。

 この橋、日露戦争での勝利を祝って出来た、隅田川の渡し船「勝鬨の渡し」が名前の由来です。そこでなぜ橋が出来たか? 実は完成した1940年に晴海、豊洲をメイン会場に開催予定だった日本万国博覧会のための橋だったのです。東京から築地を経て、隅田川を渡り、万博会場に入るルートとして建設されました。しかし、日中戦争に伴い、1938年に万博開催は延期になりました。ただ、建設途中だった勝ち鬨橋はそのまま作られたのです。日本万国博覧会協会の事務局の建物も晴海に完成していました。

 しかも延期決定前に前売りの入場券も売り出されていました。抽選券付きの12枚つづりの回数券が1冊10円。当時の小学校教員の初任給が55円程度でしたから、その五分の一。結構な値段です。かなりの枚数がすでに販売済みでした。東京万博は中止ではなく、あくまでも延期。ですから払い戻しは行われませんでした。戦後になって払い戻しが行われたものの、回収率は低かったようです。それで、どうなったかというと、1970年に開催された大阪万博、2005年に愛知県で開催された「愛・地球博」でも使用が認められたのです。

 日本経済新聞のネット版で「東京ふしぎ探検隊」というコーナーがあって、幻になった東京万博の入場券の回数券がその後、どう使われたかを追跡調査しています。それによると、大阪万博で3077冊、愛・地球博で48冊が実際に使われました。ただし、12枚つづりの回数券1冊につき、大阪万博は1枚、愛・地球博では2枚の特別入場券と交換したそうです。

 晴海、豊洲のウォーターフロントは万博施設の配置をもとに開発されたと言われています。ちなみに、1940年は東京で夏季五輪、札幌で冬季五輪の開催が決定していましたが、これも戦局の悪化で中止になりました。東京万博、五輪は日本の国威発揚の舞台でした。勝ち鬨橋も海外の技術者の支援を受けず、すべて日本人の手で設計施工を行いました。路面電車用のレールも設けられ、実際に1968年まで都電が走っていました。

 きょうは江戸ではありませんが、特異な歴史を反映した橋もあることを知ると、隅田川の橋巡りも楽しいと思います。

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隅田川を船が航行し、
橋が跳ね上がった状態の勝鬨橋
(1950年頃の撮影)



2017年8月18日 (金)

2017年8月18日放送 日本のカタチ「隅田川の橋③」

8月のテーマは「隅田川の橋」です。

8月18日放送では「民営で作られた橋」についてお話します。

 

吾妻橋は1774年、江戸で隅田川に架かる最後の橋として架橋されました。実は、この橋は幕府ではなく、町人たちが建設、運営しました。

 吾妻橋がなぜ民営の建設、運営になったかをお話する前に、これ以前に架けられた新大橋、永代橋のお話をしましょう。大雨の洪水被害が重なり、幕府も財政支出を嫌がって修復しようとせず、橋を撤去しようとしたのです。以前にお話したように隅田川は荒川と直結していて洪水被害が多かったので、橋の架け替えは度々行われました。橋を撤去すると聞いて驚いたのは町の人たちです。橋がなくなると困ると直訴し、幕府は新大橋と永代橋は民間に払い下げたのです。

 新大橋も永代橋も、武士を除く通行人から一人二銭(約50円)の通行料を徴収し、この通行料金を蓄えて修理、掛け替えの資金に充てたのです。永代橋の場合、料金徴収は1809年に打ち切り、その後は、修理費用は商家などが負担することにしました。橋はビジネスに欠かせない存在になっていたのです。ただ、橋を痛めないように、橋の上で立ち止まってはいけない、荷車の通行は不可といった交通規制を課していました。

 そうした民間払い下げの橋が続いた後に建設された吾妻橋は、最初から民間が建設、運営に携わるということで幕府に建設許可を願い出ました。ただ当初、幕府は軍事上、新しい橋は作りたくないという考えでした。さらに、吾妻橋は両国橋、新大橋、永代橋の上流に架ける計画の橋。洪水が多かった隅田川のこと、吾妻橋が倒壊すると流木が下流の橋に激突し、被害を大きくしてしまう恐れがあります。

 幕府は安全確保のため、条件をつけた上で建設を許可しました。つまり、洪水により吾妻橋が流出し、下流の両国橋などに損害を与えたときは修理費用を負担すること、損害額が500両の場合は三分の二、千両の場合は半分とする、というものでした。さらに、幕府にお願いして橋をつくるのだから、完成から6年目以降、毎年50両を幕府に納めることという条件も付けました。通行料は一人2文。

 こうして1774年に完成した吾妻橋の建設費用は2680両。1両10万円として2億6800万円です。いかに吾妻橋周辺の人たちが橋を待ち望んでいたかが分かります。

 さて、幕府から厳しい条件を付けられて完成した吾妻橋。1783年に隅田川が氾濫し、両国橋、永代橋は橋が落ちて多数の死傷者を出したのですが、上流で水の勢いが強いはずの吾妻橋は、橋は落ちず、損害は軽微でした。吾妻橋がびくともしなかったのは、住民の郷土愛。どうしても守り抜くという気持ちが橋にも通じていたのでしょう。

 今の吾妻橋は、浅草から東京スカイツリーに通じる橋として、大勢の観光客が行き来しています。橋のたもとには水上バスの発着場もあります。江戸時代、川越と江戸を結ぶ物資の輸送船の発着場でもありました。さらに客を乗せて夜に川越を出て、朝に江戸に到着する船も就航していました。今で言う夜行バスのようなものです。橋を守る費用を捻出するために経済を活発にするという江戸の人たちの奮闘がしのばれます。

Photo
江戸名所図会に描かれた吾妻橋。
幕府は大川橋と命名したが、地元の人たちは吾妻橋と呼んでいた。
その後、吾妻橋が正式名称になった。


音声はこちらからkaraoke

«2017年8月11日放送 日本のカタチ「隅田川の橋②」

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