2018年1月19日 (金)

2018年1月19日放送 日本のカタチ「『鬼平犯科帳』&時代小説で江戸を楽しく学ぶ③」

小松健一さんのブログは後日更新します。
お楽しみに!!
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2018年1月19日放送 日本のカタチ


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2018年1月12日 (金)

2018年1月12日放送 日本のカタチ「『鬼平犯科帳』&時代小説で江戸を楽しく学ぶ②」

1月のテーマは「『鬼平犯科帳』で江戸を楽しく学ぶ」です。

1月12日放送では「小説と史実の平蔵」についてお話します。

 

史実の長谷川平蔵の人柄を知る上で貴重な資料として、「よしの冊子」があります。旗本ら幕臣の素行、評判を記したものです。噂話をもとにしていますが、それだけ人々が平蔵をどう見ていたかが正直に表れています。その中で、こんなエピソードが書かれています。<平蔵が見回りをしていると、立派な袈裟を着た僧侶と、これも立派な身なりの武士が立ち話をしている。平蔵は「怪しい」とにらんで2人を連行して調べると、盗賊だったことが判明した。>

この種の「勘働き」の鋭い平蔵が他にも具体的に描かれています。さらに、平蔵は捕まえた男が無実だと分かると謝罪して、勾留日数に相当する金銭補償をしました。当時はそんなことをする人はおらず、無実だと分かると「帰れ」と放免しただけです。優しい平蔵の人柄も多く書かれています。

 そして実際に、小説の「鬼平犯科帳」ではそうした逸話もちりばめられています。池波正太郎は「よしの冊子」を参考にした、と思うのは当然のことです。ところが時系列が合わないのです。

 「鬼平犯科帳」の連載が始まったのは1967年12月からです。一方で「よしの冊子」が活字となって「随筆百花苑」(中央公論社)第8巻、第9巻として刊行され、世に出たのが1980~81年。すでに小説の平蔵の人柄は、よしの冊子の描写と一致する形で定まっていました。池波さんは眠っていたオリジナルの史料を読んだのでしょうか? 時代小説の作家の多くが「読んだとは思えない」と首をかしげています。よしの冊子はかなりのボリュームです。平蔵以外の人物の描写も多岐に渡り、原文から平蔵だけを抜き出す作業は大変なものです。

 池波さんの「勘働き」が小説の平蔵を作ったのかもしれません。小説の平蔵が先行して、史実の平蔵が後を追いかけてきた感すらあります。フィクションがノンフィクションになったというのが私の率直な感想です。

 ですから、平蔵の口から繰り出す、格言ともいうべき台詞も真に迫ってきます。「蛇苺」という作品で、密偵の一人が尾行に失敗する。そのときの平蔵の言葉。「気にいたすな。お前ほどの者に落ち度はない」。仕事には強く臨まなければならない。しかし、優しさも必要です。

 鬼平犯科帳に登場する密偵は、盗賊上がりである。平蔵のために命がけで働くが、時に恩義になった盗賊を見かけると、平蔵に報告できない。打ち明ける決心をする密偵にかける言葉があります。「口に出しては味ない、味ない」。お前の立場はよく分かる。だから言わなくてもいい。理想の上司ですね。

 「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らす善事を楽しむ。これが人間だわさ」(「谷中・いろは茶屋」)。人には善悪の二面があり、どちらにころぶかわからない。世の中は善と悪を二分する勧善懲悪では割り切れない。今は善悪二元論がまかり通る世の中です。世の仕組みは変わっても、人の世に大切なものは変わらない。そうした普遍的なテーマが織り込まれているところにも、「鬼平犯科帳」が読み継がれている魅力があります。

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2018年1月12日放送 日本のカタチ


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2018年1月 5日 (金)

2018年1月5日放送 日本のカタチ「『鬼平犯科帳』&時代小説で江戸を楽しく学ぶ①」

1月のテーマは「『鬼平犯科帳』で江戸を楽しく学ぶ」です。
1月5日放送では「時代小説の背景」についてお話します。


 「鬼平犯科帳」をはじめ時代小説の多くは、「江戸切絵図」と「江戸名所図会」にもとづいて江戸の町並み、情景を書いています。江戸切絵図は江戸版住宅地図というべきもので、江戸をいくつかの区画に分けて描いているので切絵図と言います。今も江戸後期から幕末に改訂された切絵図がいろいろな形で復刻販売されています。しかも時代小説の舞台を切絵図に記した切絵図もあります。池波正太郎の小説では、「江戸切絵図にひろがる鬼平犯科帳 雲霧仁左衛門」(人文社)、同じシリーズで「江戸切絵図にひろがる剣客商売 仕掛人・藤枝梅安」(人文社)があります。このほか、藤沢周平の作品の江戸切絵図も出版されています。出版されて年月がたっていますが、アマゾンなどのネット通販で購入できます。

 小説を読みながら、長谷川平蔵が歩いているのは、どのあたりかを視覚的に確認できます。江戸の街を俯瞰しながら小説を追うと、より江戸を実感できます。

 切絵図の見方には約束事があって、白色の区画が武家屋敷、ピンク色がお寺や神社の土地、グレーは町人が住む町です。白色が圧倒的に広いのです。江戸の土地の70%が武家屋敷だったというのが実感できます。辻番所という武家屋敷の路地に設けられた警備員詰め所、今の交番にあたりますが、これも記載されています。大名屋敷も上屋敷、中屋敷、下屋敷に区分されています。後楽園が水戸徳川家の屋敷跡、六義園が大和郡山藩・柳沢家の屋敷跡といったように、東京の大きな公園・緑地は大名屋敷の跡地が使われていることも分かります。

 どこそこ町なん丁目というのは、すべてグレーの町人地で、武家屋敷のある土地には町名がありません。それだと不便なので、武家屋敷の通りに通称の地名をつけています。今の神保町も武家用地で、通りに神保小路とあります。よく見ると神保小路の近くに神保という名前の旗本屋敷があります。こうして町名のルーツを探ることもできます。面白いのは「小役人」という武家用地。幕府の下級役人の集合住宅です。

 ただ、切絵図ではどんな風景が広がっていたか、分かりません。そこで役に立つのが「江戸名所図会」です。神田の町名主が3代にわたって完成させたもので、土地や名所の歴史を文章と、精密なスケッチを上空から見たように立体的に描写しています。泉岳寺のスケッチでは、「四十七士墓」も描かれ、名所だったことが分かります。江戸だけではなく、西は日野、東は船橋、北は大宮、南は横浜まで対象にしています。「鬼平犯科帳」では江戸の名所について「物の本によると……」と説明している箇所が多いのですが、物の本とは「江戸名所図会」のことです。筑摩書房が文庫版で出版しています。時代小説がぐっと面白くなりますよ。

※ 鬼平犯科帳を読む上で役立つ古地図と文献
① 「江戸切絵図にひろがる鬼平犯科帳 雲霧仁左衛門」(人文社)
② 「新訂 江戸名所図会」1巻~6巻(ちくま学芸文庫)

③ 「江戸切絵図散歩」(池波正太郎、新潮文庫)

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2018年1月5日放送 日本のカタチ


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2017年12月29日 (金)

2017年12月29日放送 日本のカタチ「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方⑤」

12月のテーマは「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方」です。

1229日放送では「長谷川平蔵の実績」についてお話します。

 

 史実の長谷川平蔵は1797年から8年3カ月間、火付盗賊改を務めました。再任を含めて歴代248人いた火盗改の中で最長の勤務でした。元来、火盗改は1年あるいは2年で交代することが多かったのです。というのも、火盗改の年間捜査費用は現在の価値で約700万円ほどでした。配下の与力、同心計40人の捜査費用のほか、密偵の捜査費用や生活費を捻出しなければならず、たいていは不足して持ち出しの多い役職でした。数千万円の借金をした火盗改もいたほどです。

 平蔵の勤務が長くなり、町人の間では「このままでは破産するのではないか」と心配する声も出ていたほどです。それでいて平蔵は捜査で数々の実績をあげています。神刀徳次郎という盗賊の首領がいました。東日本一帯を荒らした盗賊です。幕府の御用行列を装って関所を通り抜け、村々で略奪を繰り返したのですが、一網打尽にしたのが平蔵です。

 また、「早飛びの彦」という盗賊の頭も平蔵に捕らえられました。「早飛びの彦」というのは旗本が司令官を務める定火消という消防隊に所属していました。しかも手下の火消もいました。火事で出動して火事場泥棒を重ねた人物ですが、司令官の旗本は彼の裏の顔を知りません。ところが、平蔵は彼の素性を見抜き逮捕したのです。どこで情報を入手したのか分かりませんが、平蔵が裏社会の情報ネットワークに通じていたのは間違いありません。

 火事と言えば、火災があると火盗改の与力、同心も出動しました。平蔵は部下に命じて現場周辺の50カ所ほどに長谷川家の家紋入りの提灯を掲げさせました。テレビドラマでは「火盗」の提灯ですが、実際には長谷川家の家紋の提灯でした。平蔵は現場に来ていなくても、提灯を見た人々は「平蔵様のご出動だ」と安心したそうです。火事場泥棒を防ぐ効果もありました。

 また、町奉行所で優秀だと言われた目明かしを平蔵は逮捕しました。なぜか? この目明かしは、遊女の斡旋をするなどあくどい裏稼業をしていたのを察知したからです。逮捕して通常は牢屋敷に身柄を預けて裁きを待ち、遠島というケースになりますが、平蔵は病気治療を名目に今で言う医療刑務所のような施設に入れ、目明かしの手下だった者に身の回りの世話をさせました。牢屋敷よりも環境は良く、比較的自由な暮らしをさせたのです。町奉行所に貢献したことを考慮しての平蔵の配慮でした。
 

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「鬼平犯科帳」から見える東京21世紀ー古地図片手に記者が行く

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2017年12月22日 (金)

2017年12月22日放送 日本のカタチ「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方④」

12月のテーマは「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方」です。

1222日放送では「極秘文書に描かれた平蔵」についてお話します。

 

史実の長谷川平蔵を知る上で貴重な史料が残されています。旗本ら幕臣の評判、噂話、幕府の政策に対する庶民の反応などを記した「よしの冊子」です。平蔵が活躍した1787年から1793年までの間、老中・松平定信が側近の水野為永に命じて報告させました。平蔵のことも多く書かれています。極秘文書だったのですが、その複写が残っています。

平蔵がどのような人物だったかを現代語訳で列記しましょう。


<長谷川平蔵は先ごろは評判もさほど良くなかったが、不思議なことに町方でも受けが良く、定信も「平蔵ならば」と言うようになった。江戸の町々でも「平蔵様、平蔵様」と平蔵が火付盗賊改でいることをうれしがっている。>

 

<長谷川平蔵は町人が管理する自身番(容疑者を留置する交番や、行政の出張所の役割をした)に対して、不審者や窃盗犯を捕まえたら深夜でも、役宅に連れてくるようにと伝えている。町人が身柄を役宅に引き渡すと、当直の同心が茶とタバコを渡し、ゆっくりするようにと言われ、しばらくすると、出前の蕎麦が届いた。身柄を引き渡すのなら町奉行所よりも火付盗賊改だ、と町人たちは喜んでいる。>

 

<火付盗賊改は持ち出しの多い役職なのに、平蔵は部下の与力、同心に酒や食事をおごって士気を高めている。>

 

<平蔵が見回っている途中、長屋の夫婦が派手な喧嘩をしていた。大家が間に入ってとりなしているが、喧嘩はおさまる気配がない。平蔵は夫婦の仲裁に入り、仲直りさせた。>

 

<捕らえた盗賊の身なりが粗末だったので、平蔵は着物を買い与えてから連行した。>

 

<同心が盗賊を逮捕したが、役宅に連行する途中、逃げられてしまった。このままでは、同心は責任を問われる。するとしばらくして、盗賊が役宅に自首してきた。いずれ捕まるのだったら、町奉行所よりも慈悲深い長谷川様のお縄にかかろうと決心した。>

 

<長谷川平蔵の役宅では、連日大釜で飯を炊いて大忙しだ。大勢の者が役宅に来ているためだ。長谷川平蔵はことのほか盗賊をよくあしらい、衣類も与えている。牢屋の中の状況を中間に探らせると、近頃は食事もよく風呂にもいれてもらっていて、収容された者たちは喜んでいる。>

 

<長谷川平蔵は浅草観音や寺社に出向く際、伴の者に小銭を持たせて行き、貧しい人たちに小銭を与えている。長谷川はお仕置き筋(凶悪な盗賊)には手強いが、慈悲もよくする人だと世間の評判は高い。>

 

<最近では長谷川平蔵が町奉行のようで、町奉行は大いにへこんでいる。なにもかも長谷川平蔵に先を越され、町奉行はこれではかなわないと降参している。町奉行もいろいろと長谷川平蔵にお伺いを立てているそうだ。>

 

<いずれ長谷川平蔵様に町奉行になってほしいものだと町人たちは口々に言っている。>

 

 史料からは、平蔵は江戸の庶民たちに大評判だったことがうかがえます。町奉行も平蔵に一目置いていたのです。小説に描かれている平蔵の人柄に合致していることが分かります。

 

 

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20171222 2017年12月22日放送 日本のカタチ

「鬼平犯科帳」から見える東京21世紀ー古地図片手に記者が行く

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2017年12月15日 (金)

2017年12月15日放送 日本のカタチ「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方③」

12月のテーマは「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方」です。

1215日放送では「平蔵の人物像を探る(上)」についてお話します。

 

長谷川平蔵は1746年に生まれ、1795年に亡くなっています。当時の数え年で50歳。29歳で江戸城西の丸書院番に就職します。長谷川家は武門の誉れ高い家柄です。書院番は旗本のキャリアコースの入り口となる職場の一つです。西の丸とは隠居した将軍(大御所)や世継ぎの将軍が暮らす区域です。書院番は警護隊です。平蔵が就職した当時は、十代将軍・徳川家治の世継ぎの家基が西の丸にいて家基の警護が担当でした。しかし家基はのちに急死し、代わって後の十一代将軍となる家斉が西ノ丸に入りました。

 平蔵は30歳で西の丸進物番を兼務します。これは西の丸に届けられる大名からの進物を受け取り、管理するところで、さらに能舞台があるときは、舞台設営の差配もします。老中ら閣僚、有力大名の面前に出ることも多く、容姿端麗、礼儀正しく男前でなければ務まらないとも言われていました。

 39歳で西の丸徒頭といって歩兵隊の指揮官になります。歩兵隊は隅田川などで水泳訓練も受けていました。平蔵も水泳が得意だったのではないでしょうか。そして41歳で武官・軍人の最高ポストである先手組の頭に昇進します。先手組は34組あったのですが、平蔵は先手弓二番組頭です。当時の先手組の頭は70歳前後の高齢者が多く、平蔵は若い年齢で頭になっています。先手組とは戦場では先陣を切って戦う軍隊ですが、天下太平の時代には江戸城の城門警備などを担当しました。

 また、弓二番組は34組の先手組の中で最も多い10人の火付盗賊改方の頭を出している精鋭組織です。1787年に江戸中の商家が、困窮した庶民らに襲われた「打ち壊し」の際、幕府は10組の先手組に治安出動を命じますが、その中で平蔵は最年少の指揮官として出動しています。まさに若手のホープでした。そして、治安出動の働きぶりが認められて1787年9月から翌年4月まで火付盗賊改の助役(すけやく)を務め、1788年10月から火付盗改の本役を務めました。助役というのは、火事の多い冬から春にかけて臨時に務める火付盗賊改ですが、江戸の地域を本役と分担して務め、捜査、逮捕、お裁きは本役と同じ権限を持っていました。

平蔵は死去するまで7年間、本役を務め、助役と合わせれば8年に及ぶお務めは、歴代の火盗改の最長記録です。

江戸城勤務当時の平蔵についてこんなエピソードがあります。ある日、神田周辺で火事が起きました。平蔵は上司に欠勤届を出して、妻に「夜食の準備をしておくように」と伝えて、神田門近くの老中・田沼意次の上屋敷へ駆けつけます。「延焼の危険があります。私が先導しますのでついて来てください」と、意次の家族や奉公人らを引率して田沼家下屋敷へ引率避難させました。やがて高級菓子が届きました。平蔵が抜かりなく和菓子屋に手配していたものです。長谷川家が用意した夜食も振る舞われました。意次は家族から平蔵の手回しの良さを聞き、感服したそうです。

   時の権力者、田沼意次に気に入られたのでしょう。平蔵はほどなくして武官の旗本先手組頭に抜てきされたのです。こうしたことから平蔵は田沼意次派と見られていました。

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長谷川平蔵が19歳から死去する50歳まで暮らした屋敷跡の説明版は、都営地下鉄菊川駅前にある

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長谷川平蔵邸は手前の交差点右側の店舗が並ぶ広大な一画にあった

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2017年12月15日放送 日本のカタチ

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2017年12月15日放送 日本のカタチ  

小松健一さんの

「古地図片手に記者が行く 「鬼平犯科帳」 から見える東京21世紀」

CCCメディアハウス より 12月13日発売です。

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2017年12月 8日 (金)

2017年12月8日放送 日本のカタチ「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方②」

12月のテーマは「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方」です。

12月8日放送では「鬼もいれば仏もいた」についてお話します。

 

先週はおっかない火付盗賊改方のお話でした。しかし、鬼のような火付盗賊改ばかりではありません。

 進成睦(しん・なりちか)という旗本が1725年から3年間、火付盗賊改を務めました。市中見回りをしていた深夜、旅館の2階から男たちの声と、じゃらじゃらというお金の音も聞こえてきた。博打をしているに違いない。付き添いの同心に戸口をたたかせた。宿の主人に「火付盗賊改である!」と一喝。二階も静まりかえった。そこでお頭の進成睦はこう言ったのです。


 「通りかかったら二階で大勢が集まり、銭の音もする。多分、売り上げの勘定をしているのだろうが、博打をしていると間違われるから、銭勘定は昼間か夕方に済ませるように」。

博打をしていたのは間違いないのですが、少額の銭をかけた遊び、庶民のささやかな娯楽。見逃してやろうということでしょう。


 別の逸話もあります。進成睦が同心と浅草界隈を夜回りしていると、木戸番(警備員)が2人、拍子木を打って町内を回っているのに出会った。木戸番から「誰だ」と呼び止められたが、構わず黙って歩くと、木戸番の一人が棒で殴りかかってきた。同心がすかさず「こちらは火付盗賊改である」と言うと、木戸番は震え上がって逃げ出した。木戸番からことの成り行きを聞いた町内の人たちが翌朝に集まり、「きっとおとがめがあるぞ」とささやき合っていると、火付盗賊改から「昨夜の見回りは良いこころがけだった」と褒美の金子が届けられたそうです。粋なお頭ですね。


 一方、サラリーマン組織を彷彿とさせる火盗改のお頭もいました。1773年から半年間、火付盗賊改を務めた赤井忠晶、1776年から2年10カ月、火盗改方だった土屋守直の2人です。2人は毎夜の見回りにあたって、江戸城近くの老中や若年寄ら幕府の閣僚の屋敷がある地区を重点的に巡回しました。そして、自分が見回ったことを屋敷に報告したのです。閣僚が住み、警備も厳重な地区に盗賊なんて出没するはずはありません。しっかりと役目に励んでいること、閣僚の安全に心を砕いていることをアピールする目的です。


 そんな見え透いたことを、と思われそうですが、赤井忠晶は京都町奉行、土屋守直は大坂町奉行へと栄転しました。火付盗賊改は武官(軍人)の最高ポストですが、文官・行政官だと地方の主要奉行を経て江戸の町奉行、大目付へとさらに出世の道が開かれます。幕府の官僚機構が整備され、天下太平の世の中になり、「鬼」一辺倒の火付盗賊改では世渡りができなくなったのです。


 来週は史実の平蔵を見ていきましょう。

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火付盗賊改方は幕末の慶応2年(1866年)に廃止されました。
最後の火盗改を務めた戸田正意が暮らした役宅は現在、
千代田区立番町小学校になっている



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2017年12月 1日 (金)

2017年12月1日放送 日本のカタチ「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方①」

12月のテーマは「鬼平誕生50年記念 長谷川平蔵と火付盗賊改方」です。

12月1日放送では「火付盗賊改方は怖い軍隊だった!」についてお話します。

 

火付盗賊改方とは、火付け(放火)と盗賊を取り締まる組織です。まず、1665年に「盗賊改」が出来て、1683年に「火付改」ができました。この二つの組織が合体して1718年に「火付盗賊改」となりました。犯罪捜査を行う組織として「町奉行所」がありますが、どうして別組織をつくったのでしょうか?

 当時の状況として、盗賊が武装強盗集団だったことが理由に挙げられます。江戸時代前期には、戦国時代や関ヶ原の戦いで滅ぼされた武将の家臣、とくにゲリラ戦を得意とした忍びの者たちが食いはぐれて盗賊集団を形成しました。殺戮と略奪という戦場の荒々しい手法そのままに押し込み強盗を働いたのです。しかも、放火してその騒ぎに乗じて盗み、何カ所も放火して右往左往する役人の警戒が手薄なところで強盗を重ね、あるいは鎮火後に放火してさらに盗みを働く手合いでした。
 
 町奉行所では対応不可能でした。そこで幕府軍の精鋭部隊である先手組(合計で34組あった)の中から、選抜して盗賊改、火付改の役目を命じました。つまり凶悪犯罪には軍隊で対処したのです。

 町奉行所は軍事組織ではありません。行政、司法、警察を担当していましたが、町奉行は文官、行政官です。一方で火付盗賊改方のトップは武官、軍人です。部下も先手組の軍人。ですから火付盗賊改方は、軍事特別警察と言えます。このことからも、火付と盗賊がゲリラ組織のような存在だったことが分かります。

 ゲリラ組織に対する取り締まりは相当に荒っぽいものでした。初代の火付改は3千石の旗本、中山勘解由が任命されました。彼は任命されると「慈悲の心を捨てる」と宣言し、自宅の仏壇をたたき壊したと伝えられています。怪しいとにらむとどしどし逮捕し、拷問して自白させ、無実の者も多く処刑されたそうです。

 中山はその後、大名の監察官で旗本の最高ポストの一つ、大目付に就任しました。人権侵害の甚だしい取り締まりによって江戸の治安が保たれたことが評価されたのです。
 
 もう一人、1718年から7年間、火付盗賊改を務めた山川忠義という旗本がいました。在任中102人の放火犯を火あぶりの刑にした人物です。幕府の公式記録「徳川実紀」に山川のことが書いています。「市民は大いに山川を恐れ、子供が夜泣きすると「山川、山川」と言えば泣き止む。山川白酒という店は、山川の名字を呼ぶことを恐れて看板から山川の字を削り取った」。怖い人が多かったのです。

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小説「鬼平犯科帳」で火付盗賊改方の役宅が設定された所は現在、
千代田区役所(高層ビル)になっている。
1840年代に一時期、実際に役宅が置かれた

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2017年11月24日 (金)

2017年11月24日放送 日本のカタチ「江戸っ子について④」

11月のテーマは「江戸っ子」です。

1124日放送では「実は江戸っ子は……。江戸っ子文化の背景」についてお話します。


 これまでは、江戸っ子の代表は、長屋の住人たちだったことをお話してきました。ところが、最初の江戸っ子はそうじゃなかったという話もあります。

 江戸っ子に関する史料に精通した歴史学者、西山松之助さんの著書「江戸っ子」によると、江戸っ子とは本来、江戸の中心部で生まれた高級な町人を指していたそうです。江戸っ子には5つの条件があると書いています。① 江戸城に住む徳川将軍家のお膝元に生まれ、水道水の水を産湯にした。② 宵越しのカネを持たない。カネ離れがいい。③ 乳母日傘で育った高級町人 ④ 日本橋のような江戸中心部で生まれ、生粋の生え抜きであること ⑤ 粋(いき)と張り(自分の意思を通す強い気持ち)とに男を磨く、いい人間。

 だから本来の江戸っ子というのは、日本橋やその周辺の商人、たとえば、日本橋の魚河岸の大旦那、蔵前の札差(旗本、御家人相手の金融業者)たちが中心でした。彼らが顧客となり、あるいは自ら担い手となって歌舞伎、浮世絵、川柳、郭遊び、花火など江戸の町人文化が発展していったわけです。

 ところが、1810年代ころから、裏長屋の住人が江戸っ子の代表になっていったのですね。裏長屋の住人が江戸っ子になった背景として、浮世草子(娯楽小説)や芝居があるそうです。江戸考証家、三田村鳶魚の説です。

 法律や制度の上からは、町人は武士に頭が上がらない。しかし浮世草子や芝居で武士を見下すのは大丈夫。芝居を見るような江戸の上流階級、つまり高級町人たちが、武士をやりこめる芝居を見て愉快に感じるわけです。そして、その芝居で武士をやりこめるのが、長屋の住人たちなんですね。彼らは芝居見物を楽しむおカネはありませんが、芝居に出てくる正義の見方のような人物が、芝居の内容や登場人物を人づてに聞いて「俺と同じ仕事じゃないか」となって、江戸っ子が高級町人から、長屋の住人に移ってしまったのです。

 三田村鳶魚はこう言っています。「今の世の中は、芝居が世の中のことを真似るんじゃない。芝居がもとになって世の中のほうが真似るんだ」と書いていますが、まさに江戸っ子はそうして生まれたのです。

 江戸では、町人たちが武士を軽く見る風潮があったようです。どの大名家も、参勤交代の殿様のお供で来た家臣たちに「江戸で町人と揉め事を起こすな」と厳しく命じていました。銭湯でも女湯を覗き見る代表的な人物として、江戸の庶民たちは勤番侍をあげていました。勤番侍とは、参勤交代で江戸に来た地方の武士のことです。江戸っ子は彼らを浅葱裏(あさぎうら)と呼んでいました。羽織の裏地が浅葱色(薄い緑がかっった青色)の侍が多かったからです。野暮な田舎侍という意味で使われました。

 江戸は地方から多くの人が来る都市でした。言葉や生活習慣も異なっていました。生粋の江戸人の心意気を見せてやれ!! こうした意識も江戸っ子の背景です。

 

 江戸っ子が自慢した江戸の水道水については、東京都水道歴史館のホームページをご参考ください。
http://www.suidorekishi.jp/about.html

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2017年11月17日 (金)

2017年11月17日放送 日本のカタチ「江戸っ子について③」

11月のテーマは「江戸っ子」です。

1117日放送では「江戸城でストレスを発散した町人たち」についてお話します。

 

今日は江戸っ子、裏長屋の住人ではなくて、町人がテーマのお話です。町人と江戸っ子の決定的な違いがあります。それは、町人たちは、町奉行の下で町役人となっていたことです。学校では町奉行所の役人というと武士で構成していると学びましたが、実は町人の役人もいたのです。

 江戸八百八町といいますが、江戸後期になると1680もの町があったのです。町奉行所が扱う町の人口は50万人を超えていました。武士の役人はわずか250人しかいなかったので、江戸の町の行政をすべて武士で扱うのは難しくなったのです。町という共同体を町人に自治的に運営させたのです。

 町役人の筆頭は町年寄。3つの家(奈良家、樽屋、喜多村)が代々世襲していました。町年寄は、町奉行からの町触(まちぶれ、法令)の伝達をはじめ、行政を担っていました。町年寄の下に町名主が置かれました。町名主(250人前後)は一人で複数の町を担当し、町年寄から伝えられた町触を各町に伝え、町人の民事訴訟の受付、人口調査などを行っていました。そして町名主の下に「月行事」がいました。名前がややこしいですが、土地や家を所有している人、家を管理している人などから月番で選ばれました。

 以上が町役人。彼らが長屋の江戸っ子に指図する立場にありました。でも、江戸っ子、なかなか言うことを聞かなかったかもしれません。江戸っ子の揉め事があって当事者同士で解決できず訴訟になるとき、町名主が訴状を受け付けます。そして、名主の仲介で和解し、できるだけ町奉行所に持ち込ませないようにしたのです。民事トラブルでは裁判官の役割もあったのです。

 ストレスもたまったでしょう。その発散の場があったのです。それも江戸城の中で!

 将軍宣下、幼君誕生、元服、婚礼、法事などの時に、幕府は江戸城で5日間、能舞台を設けました。そのうちの1日を町の役人たちが鑑賞できる日にしました。将軍、御三家、老中らも出席しています。町奉行もいます。能鑑賞がストレス発散ではありません。能鑑賞に名を借りた町役人の無礼講です。

 能が始まると、御簾があがって将軍の姿も見える。すると「やあ大将、親玉!」と将軍のことをあれこれいう掛け声が町人たちから出ます。褒めているのか冷やかしているのか。老中や若年寄に対しても「○○守!しっかりやれよ」とは「ハゲ〜」「白髪頭」と罵詈雑言を浴びせかける。
 普段は町役人にあれこれ指示している町奉行に対しては、ここぞとばかり、悪口を浴びせかけられました。「バカ、間抜け」なんて序の口だったそうです。そういう悪口を将軍が聞いて笑い草にされるということもありました。すごいストレス発散です。

Photo
江戸城で町名主たちが参加した能舞台
(大江戸散歩を楽しむ会のブログより)


※ 町人たちが楽しんだ江戸城の能舞台については、
次のURL(大江戸散歩を楽しむ会)もご参考にしてください。

http://wako226.exblog.jp/tags/%E8%83%BD%E8%88%9E%E5%8F%B0/

音声はこちらkaraoke
2017年11月17日放送 日本のカタチ

Youtubeでもお聴きいただけます 

 

 

 

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