2017年4月28日 (金)

2017年4月28日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 江戸城編④」

4月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(江戸城編)です。

4月28日放送では「鬼平も勤務した江戸城」についてお話します。

 

 先週に引き続き、時代小説「鬼平犯科帳」(池波正太郎著、文春文庫)の主人公、火付盗賊改方長官、長谷川平蔵から江戸城のエピソードをお話します。長谷川平蔵は実在した旗本で、1746年に生まれ1795年に死去しました。当時は数え年ですから50歳でした。この当時、武士に定年制はなく、70歳を越えてもお役目につく旗本も多かったようです。

 小説の第23巻特別長編「炎の色・盗みの季節」にこんな描写があります。<それは、ずいぶん、むかしのことになる。安永四年の早春のことだから、長谷川平蔵は三十歳になったばかりで、当時は、西ノ丸・書院番という御役目についていた>

 安永4年は西暦1775年。西ノ丸は大御所(引退した前将軍)や将軍世子が暮らす御殿のことです。書院番は警護隊。史実の平蔵は1774年、29歳で西ノ丸書院番に入りました。旗本として最初の御役目でした。

 当時の平蔵についてこんな逸話が残されています。現代語訳で紹介しましょう。
 <ある日、神田周辺で火災が起きた。平蔵は上司に欠勤届を出し、そのまま神田御門に近くにあった老中・田沼意次の上屋敷へ向かった。田沼は江戸城に勤務していて、平蔵は田沼の家族に延焼の危険があるのですぐに避難を」と呼びかけた。平蔵は家族らを引率して田沼家の別邸へ無事に避難させた。別邸に到着すると、高級菓子と夜食が届けられた。平蔵は自宅を出る前に、妻に夜食をつくって田沼家の別邸の届けさせるよう依頼。田沼家上屋敷に向かう途中で高級菓子を注文して届けさせた。田沼意次は家族から平蔵の手回しの良さを聞いて感服した>

 時の権力者だった田沼意次に気に入られたのか、平蔵はほどなくして番方(武官)の旗本の最高ポスト、御先手組頭に抜擢されました。御先手組とは幕府常備軍のことです。御先手組頭になるまで平蔵は西ノ丸に12年間勤務していました。この間、大名や旗本からの献上品を扱う西ノ丸進物番という応接役も務めました。進物番は儀式などで人前に出ることが多いので礼儀作法がしっかりしていて、男前でなければ務まらない役職と言われていました。その後、歩兵隊を率いる西ノ丸徒(かち)頭を経て御先手組頭に昇進し、火付盗賊改方長官も兼任しました。

 経歴や逸話から推測すると、平蔵はイケメンで礼儀正しく、しかも上司への配慮が行き届き、武勇の誉れ高い旗本だったようです。旗本は約5千人いましたが、そのうち3040%が役職に就けなかったと言われています。役職に就けば、次は出世競争です。平蔵はその点、うまく立ち回ったのかもしれません。

 西ノ丸があった所は現在、二重橋の奥にある皇居正殿になっています。

Photo

長谷川平蔵が御先手組頭になるまで勤務した西ノ丸は、

二重橋の奥にあった

放送の最後に紹介した「鬼平犯科帳」で使われた

役宅の門はこちらに写真があります。
http://fm843.air-nifty.com/nihon/

音声はこちら
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2017年4月28日放送 日本のカタチ

2017年4月21日 (金)

2017年4月21日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 江戸城編③」

4月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(江戸城編)です。

4月21日放送では「鬼平ファン必見の清水門」についてお話します。


 千代田区役所の向かいに清水門に通じる橋があります。作家、池波正太郎さんは「江戸古地図散歩」の中で、このように書いています。

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清水門の向かいに「御用屋舗(屋敷)」がある。
小説では、ここに火付盗賊改方役宅があったとの設定だ


<むかし、徳川家康が、はじめて江戸へ入ったころには、このあたりに清水寺があったので、それにちなみ、城門の名を定めたという。現在、千代田区役所と堀をへだてて、古風な土橋をもつ城門がのぞまれる。これが清水御門だ。蒼(あお)い水をたたえた堀と石垣と城門がかもしだす雰囲気は、初夏の夕闇が濃くなりかかるころ、このあたりを歩いていて、おもわず立ち止まり、ためいきがもれるほどに美しい。>

<私の鬼平犯科帳の主人公で火付盗賊改方長官・長谷川平蔵の役宅を、この清水門外に設定したのも、このあたりの江戸城・内堀の景観が好きだったせいかも知れぬ。>

 中村吉右衛門さん主演で28年間続いたテレビドラマシリーズ「鬼平犯科帳」の舞台、清水門外の役宅は、池波正太郎さんが小説上の創作だと明言しています。古地図を見ると、清水門外に「御用屋敷」と記されています。幕府が公用で使う施設という意味です。池波さんはここを役宅の設定にしました。史実では、役宅は火付盗賊改方長官の私邸にもうけられ、長谷川平蔵の場合、役宅は本所(墨田区)にありました。ところが、江戸の記録を編集した「東京市史稿」市街編第41巻にこんな記述があるのを見つけました。<天保14年、清水門外 内藤伝十郎屋敷跡へ、火付盗賊改御役宅ができる>

 史実の長谷川平蔵死去から48年後の1843年、幕府公設の火付盗賊改方長官の役宅が実際に、清水門外に建設されたのです。間もなく廃止されたようです。池波さんは「火付盗賊改方長官になった旗本の私邸が役宅になっていることは知っていたが、江戸城に近い方が小説の展開で都合がよかった」と書いています。つまり、池波さんはこの史料を知らなかったのは間違いなく、池波さんの勘働きには驚かされます。

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清水門の向かいに「御用屋舗(屋敷)」がある。
小説では、ここに火付盗賊改方役宅があったとの設定だ


ちなみに、この清水門外の役宅は現在、千代田区役所になっています。昔も今も御用屋敷なのですね。
 清水門周辺はとても美しい風景です。高麗門に通じる橋から眺める堀、高麗門から櫓門を抜け、坂の階段を歩くと、江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚をいつも覚えます。特に坂道の階段は、土を固めて、それが崩れないように石で階段状にしていて、雁木坂と呼ばれています。雁が群れをなして飛んでいる姿に似ているため名付けられました。江戸時代当時のままの階段です。清水門を訪れる人はあまりいません。ゆったりと散策を楽しめます。

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石段を上がると高麗門を堀が一望にできる

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中村吉衛門さん主演のテレビシリーズ
「鬼平犯科帳」
で使われた役宅の門(京都の松竹撮影所で)

※ 掲載の地図は「もち歩き 江戸東京散歩」(人文社)から引用しました。

音声はこちら
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2017年4月21日放送 日本のカタチ

2017年4月18日 (火)

2017年4月14日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 江戸城編②」

4月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(江戸城編)です。
4
14日放送では「広大な皇居東御苑。江戸時代に何があった?」についてお話します。


 きょうは一般公開されている皇居東御苑についてお話しします。目につく江戸時代の遺構といえば、天守台。ここには地上58メートル、五層六階の壮大な天守閣がありましたが、1657年の明暦の大火で焼け落ちてしまいました。その後、加賀藩前田家が天守閣再建のため、石垣工事で有名だった近江(滋賀県)の職人たちを呼び寄せ、天守台の改築工事を行いました。しかし四代将軍・徳川家綱の補佐役だった保科正之が「太平の世に、戦争の備えの象徴である天守閣はいらない」と進言。将軍もこれを受け入れ、天守閣は再建されませんでした。このため改築した天守台だけが今も残っているのです。

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天守閣が火災で焼失後、天守台だけが再建された

 天守台の近くには本丸がありました。徳川将軍が暮らし、老中ら閣僚、さまざまな役目の旗本、御家人らが公務員として働く幕府の中枢です。本丸には時代劇で有名な大奥もありました。大奥で働く女性たちは平川門から城内と城外を出入りしていました。平川門は別名、不浄門と呼ばれ、江戸城で亡くなった人、江戸城で犯罪を犯した人を城から出す門でした。吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭も不届き者としてこの平川門から外に出され、切腹現場まで護送されました。

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平川門に通じる橋

 本丸の東側には二の丸がありました。将軍の別邸と世継ぎが暮らす御殿があり、庭園が整備されていました。1968年に皇居東御苑が一般公開されるのに伴い、九代将軍・家重の時代の絵図面をもとに庭園が復元されました。現在、私たちが見る二の丸庭園です。 幕府の中枢だった皇居東御苑ですが、現在は警備の番所などを除き、建築物はほとんど残っていません。先ほどお話した浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけた松の廊下も散策道になっています。

 実は幕末に江戸城は何度も火災を起こし、本丸、二の丸は焼失しました。隠居した将軍(大御所)が暮らす西の丸も火災で焼けて、仮御殿の西の丸を再建し、そこに幕府の中枢を一時的に移しました。本丸と二の丸は再建する間もなく、明治維新を迎えたのです。明治天皇が江戸城に入り、皇居を構えたのは当時、唯一再建されていた西の丸です。二重橋の奥の方です。現在の皇居の主要施設が江戸城の西の丸周辺に集中しているのは、明治維新当時、本丸も二の丸も火災で焼失していて、再建されなかったためです。

 皇居東御苑が幕府の中枢だったことをしのばせるのは、北桔橋(きたはねばし)門です。この門から入るとすぐに本丸に通じていたため、江戸時代はその名の通り、跳ね上げ式の門で普段、橋は上げられていて通行できませんでした。

 皇居東御苑を散策するときは、幕府の中枢だったことを想像しながら歩いてみてください。

音声はこちらからkaraoke

2017年4月 7日 (金)

2017年4月7日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 江戸城編①」

4月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(江戸城編)です。
4月7日放送では「皇居の森を一望にできるスポット」についてお話します。


 皇居の内堀通りは1周5キロ。歩くにつれて堀と城壁の景色が大きく姿を変え、壮観です。皇居を一望したいという方におすすめのスポットがあります。私が勤めている毎日新聞社のあるパレスサイドビルの屋上です。パレスサイドビルは地上9階建て。平日の午前11時半から午後2時まで屋上は一般開放されています。ベンチがあって、庭園があって、この季節はとてもいい気分を味わえます。

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皇居の堀に面したパレスサイドビル


 この屋上、皇居の森が見えるということで、警視庁を舞台にした刑事ドラマの撮影がよく行われています。警視庁はパレスサイドビルの反対側にあり、屋上から警視庁の建物を見ることができます。

 パレスサイドビルの敷地には江戸時代、御つき屋という施設がありました。幕府の施設です。江戸城で消費するおコメの精米所で、餅もついていました。おつきやの前には井戸があって、きれいな水が湧き、江戸城で使う飲料水もこの井戸のわき水を使ったと言われています。江戸城内には上水道である「玉川上水」が引かれていましたが、玉川上水は主に城内の庭園用に使われたと伝えられています。

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右側の平川御門、竹橋御門、雉子橋御門、
一ツ橋御門に囲まれて御つき屋がある


 パレスサイドビルへは地下鉄東西線竹橋駅が最寄り駅です。駅名の竹橋というのは、竹橋見附門という城門に通じる橋のことです。江戸時代初期には竹で組み立てられた橋が架かっていたというのが名前の由来のようです。城門は取り払われているので、大手門、桜田門など現存する城門に通じる橋のような、威厳ある雰囲気はありませんが。

 パレスサイドビルの屋上から皇居と周囲を一望して、すぐ前の平川門から皇居東御苑に入ることができます。皇居の周辺散歩のスタート地点として、屋上はおすすめです。地下1階にはレストラン街もあります。

 注意事項があります。屋上での写真撮影は禁じられています。

※ 掲載の地図は「もち歩き 江戸東京散歩」(人文社)から引用しました。

音声はこちらですkaraoke
2017年4月7日放送 日本のカタチ

2017年3月31日 (金)

2017年3月31日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 文京区編⑤」

3月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(文京区編)です。
3月31日放送では「江戸の昔より文教の街」についてお話します。


 今月は文京区内で江戸と東京のつながりをお話してきました。きょうは、その締めくくりとして文京区という区の名前のルーツを探ります。文京区の区の歌があります。作詞は詩人、作家として有名な佐藤春夫。一番の歌詞の始まりはこうです。「ああ大江戸のむかしより ここは学びの土地にして」。文京区で学びの土地というとすぐに思い浮かべるのは、1回目でお話した東京大学ですね。でも、江戸の昔から学びの土地というと、どこでしょう? 湯島聖堂のことです。

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古地図に記載された湯島聖堂(地図の12番)


 五代将軍・綱吉が儒学の振興を図るため、1860年、湯島に創建したのが湯島聖堂です。幕府の儒者(儒学の権威)、林羅山が上野不忍池近くに設けていた私塾の孔子廟を移転させ、学問所を置きました。湯島聖堂を設立するにあたって、綱吉はこの地を孔子が生まれた中国の昌平郷(しょうへいごう)の名をとって、昌平坂と名付けました。湯島聖堂へ行くとわかりますが、あのあたりは坂道です。


 学問所では旗本ら幕臣の教育を行いました。学問所はあくまでも林家の私塾の扱いでしたが、1790年代、時の老中・松平定信が学問所を幕府直営の学校、現在の国立大学にして名前も「昌平坂学問所」となったのです。さらに、学問吟味という試験を行いました。成績優秀者には出世の道が開かれたのです。幕府の役職は老中、若年寄といった現在の閣僚を除き、大部分は旗本と御家人で占められました。旗本らの出世は、家格(家柄)、コネ、能力で決まりましたが、何と言っても大きいのは家格と上司の受けでした。能力面を見るということで試験が行われたのです。今で言うと国家公務員採用試験のようなものです。ほぼ3年ごとに試験が行われました。


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湯島聖堂の大成殿


 昌平坂学問所は明治維新後、明治政府が継承して明治4年に閉鎖されましたが、湯島聖堂には、文部省、国立博物館、東京師範学校、東京女子師範などが誕生しました。文部省は後に霞が関へ、国立博物館は上野へ、東京師範は筑波大、女子師範はお茶の水女子大となっています。まさに江戸以降、文京区は教育の中心なのです。

 もう一つ、湯島には湯島天神があります。江戸、東京を代表する天満宮で学門の神様ですね。

※ 掲載の地図は「もち歩き 江戸東京散歩」(人文社)から引用しました。


音声はこちらですkaraoke
2017年3月31日放送 日本のカタチ

2017年3月24日 (金)

2017年3月24日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 文京区編④」

3月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(文京区編)です。
3月24日放送では「小石川植物園の歴史」についてお話します。


都営地下鉄三田線・白山駅から歩いて10分ほどのところに小石川植物園があります。東京大学大学院理学系研究科の付属施設です。入園料は必要ですが、一般にも開放されています。古地図を見ると、江戸時代は「御薬園」と「養生所」となっています。

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 御薬園は、その名の通り、薬草を栽培して薬を製造する施設です。新しい薬を開発し、今で言えば製薬会社の研究所のようなところでした。三代将軍・家光はしばしば病にかかり、将軍家の薬を生産するために品川と牛込に薬園がつくられ、後に小石川の御薬園に統合されました。八代将軍・吉宗の時代(1716〜45年)は疫病が流行し、疾病対策のために吉宗は御薬園を拡張しました。

 薬草の中でも高級だったのが朝鮮人参です。朝鮮半島や中国に自生し、日本にはなかったので朝鮮人参は輸入品でした。支払いは銀。輸入が増えるごとに銀は海外に流出します。銀の流出を食い止めるために、吉宗は朝鮮人参の国産化を思いつきました。苗と種を入手させて御薬園や日光などで栽培実験が始まり、国産人参が本格化していきました。天候不順でコメが不作になると、飢饉が起きます。その対策としてサツマイモの栽培もしました。

 ところで御薬園でつくられる新しい薬は、将軍や旗本、江戸城に勤務する武家、大奥向けに配布され、一般庶民はその恩恵にあずかることができませんでした。また病気になっても医者に診てもらうことができない人が多くなりました。医者に支払う報酬が高いからです。

 このため、ある町医者が貧しい人も安心して治療を受けられる施設をつくってほしい、と目安箱に投書しました。目安箱とは庶民の意見を聴くために吉宗が設けた投書箱です。厳重に鍵がかけられ、吉宗以外に投書を読むことは出来ませんでした。町医者の投書にもとづき、吉宗は御薬園の敷地に庶民向けの医療施設を建設するように命じました。これが「養生所」です。入院患者と通院患者を受け入れました。治療費は無料。薬代も幕府が負担しました。ところが、最初は患者が来なかったのです。どうしてかと言うと、庶民の間で「養生所は、御薬園でつくった新薬の効き目を試すため、人体実験される場所だ」「一度、養生所に行けば、生きて帰れない」という噂がたったためです。

 町奉行があわてて噂を打ち消し、懸命にPRしたことで、人々が訪れるようになったそうです。しかし一方で、弊害も出てきました。無料のはずなのに付け届けがないと診てもらえないといったことや、看護師による入院患者の虐待もあったそうで、町奉行所には養生所見回りの与力、同心もいました。

※ 掲載の地図は「もち歩き 江戸東京散歩」(人文社)から引用しました。
※ 小石川植物園へのアクセス、四季の見どころなど詳細は以下のホームページをご覧ください。
http://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/koishikawa/

3月24日放送の音声はこちらですkaraoke

2017年3月17日 (金)

2017年3月17日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 文京区編③」

3月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(文京区編)です。
3月17日放送では「吉祥寺は文京区になるのに、吉祥寺駅は武蔵野市にある不思議」についてお話します。


 吉祥寺というと、武蔵野市の吉祥寺駅界隈のことですね。ハモニカ横丁、落ち着いた家並み、井の頭公園があって、数年前までは「住みたい街」ランキングでトップでした。ところで吉祥寺というからには、近くに吉祥寺というお寺があるはず、と思って探しても見つかりません。実は吉祥寺というお寺は文京区本駒込にあります。正式には諏訪山吉祥寺といいます。曹洞宗の寺院です。駅は武蔵野市、お寺は文京区。どうしてでしょうか?

 歴史を遡ってみましょう。太田道灌が江戸城を築いた際、井戸を掘っていると「吉祥」と刻印された金印が出てきました。これを江戸城でまつって吉祥庵と名付けました。吉祥寺の始まりです。その後、天正年間(1573〜92年)に吉祥寺は現在の水道橋駅近くに移転しました。ところが1657年の明暦の大火で吉祥寺は焼失し、現在地の文京区本駒込に移りました。一方で水道橋の吉祥寺門前に住んでいて焼け出された人々に武蔵野の土地、現在の武蔵野市の土地を与え、開墾を奨励しました。武蔵野台地の新田開発が進み、村が誕生しました。
 人々はかつて住んでいた吉祥寺門前という町名に愛着を持っていたので、新しく出来た武蔵野の村を吉祥寺村と名付けたのです。つまり、大火の後、お寺は文京区へ、住人は武蔵野市へ分かれて移転したため、こういうことになったのです。

 武蔵野市には西久保という町がありますが、この町名も江戸にルーツがあると伝えられています。現在の港区にあたる芝西之久保というところに住んでいた住民が、やはり明暦の大火で被災し、武蔵野に移転。吉祥寺と同様に愛着のある西久保という地名をつけたそうです。明暦の大火後の江戸再建は人々、寺院、武家屋敷の大規模な移転を伴ったことが地名の変遷からも想像できます。江戸時代に吉祥寺境内に僧侶を養成する学校があったのですが、その学校が現在の駒沢大学のルーツです。

 武蔵野市は江戸とのつながりが深く、井の頭公園の井の頭池は江戸の上水道、神田上水の取水源で江戸市民の生活を支えました。武蔵野市に隣接する三鷹市は徳川将軍が鷹狩を行った鷹場の村々があったことに名前が由来していると言われています。

Photo

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文京区本駒込にある吉祥寺(文京区ホームページより)


※ 吉祥寺の住所は、文京区本駒込3−19−17。最寄り駅は地下鉄南北線本駒込駅です。

音声はこちら
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2017年3月17日放送 日本のカタチ

2017年3月10日 (金)

2017年3月10日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 文京区編②」

3月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(文京区編)です。
3
10日放送では「江戸の境界を伝える説明板」についてお話します。


 本郷通りの本郷三丁目交差点の角に、「かねやす」という名前の用品雑貨店があります。店舗の外壁に面白い説明板があります。「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と書いています。この言葉、亨保年間の1730年ごろに詠まれた川柳なのです。

 「かねやす」は、兼康祐悦という歯科医が江戸時代初期に開いた小間物の店です。元禄年間に「乳香散」という歯磨き粉を製造販売し大ヒットしました。

 先の川柳についてお話しましょう。1730年に江戸で大火があり、時の町奉行・大岡忠相が現在の本郷三丁目交差点付近から南の江戸城にかけての家々に対して、燃えやすい茅葺きを禁じて瓦葺きにするよう指示。また耐火性の土蔵づくりも奨励しました。防火対策ですね。そして本郷三丁目交差点付近から北は、従来の茅葺きの家が続いたといいます。街の風景ががらりと変わったのですね。「かねやす」はちょうどその境目、耐火建築区域の北限だったことから「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と言われるようになったのです。

 ところで、江戸の境界といっても、「かねやす」は正規の境界ではありませんでした。あくまでも町奉行の防火対策上の江戸の境界です。お裁きで江戸所払いという刑罰があります。この場合の江戸は「品川、板橋、千住、新宿、本所・深川の内側」です。一方、旗本や御家人といった徳川将軍の家来は江戸の外へ外出するときは幕府に届けなければならなかったのですが、この場合の江戸は「江戸城を中心に四里四方」と定められています。わかりやすく丸めて言えば、江戸城から半径8キロの範囲が江戸だということです。さらに、変死者や迷子が出た場合、江戸市中に高札で知らせることになっていたのですが、この時の江戸はさらに違った範囲でした。つまり、幕府の機関によって江戸の境界はまちまちだったのです。

 さすがに、これでは不都合だということで、1818年になって地図に朱色の線で江戸の境界を確定しました。これを「朱引き」といいます。現在の地図に重ね合わせると、北はJR王子駅と千住大橋、東は荒川、南は大井町駅、東は東中野駅で囲んだところが江戸です。「かねやす」の北もすっぽり江戸になりました。

 それにしても、ほぼ同じ場所で業種は変わっても400年も店舗を構えている「かねやす」に歴史の伝統を感じます。

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本郷3丁目の雑貨店「かねやす」の外壁に取り付けられた
江戸の境界を示す説明板

音声はこちらkaraoke

2017年3月10日放送 日本のカタチ



2017年3月 3日 (金)

2017年3月3日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 文京区編①」

3月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(文京区編)です。
3
3日は「東京大の赤門」についてお話します。


 本郷通りを歩くと、東京大学の朱塗りの赤門があります。観光客が訪れてよく記念撮影写をしています。この赤門、東京大学を設立した時につくった門ではありません。東京大学本郷キャンパスの敷地は加賀藩前田家の上屋敷にすっぽり収まっています。実は赤門は前田家屋敷の門です。正式には御守殿門といいます。御守殿とは御三家や格式の高い大名に嫁いだ徳川将軍家の娘の敬称で、その娘が住む御殿のことでもあります。

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加賀藩前田家の屋敷。現在は東大本郷キャンパス

  御守殿の門が御守殿門です。そして御守殿門は朱塗りにするのが決まりで、赤門と呼ばれるようになりました。他の門は黒色です。つまり大名屋敷に赤い門があるところは、徳川将軍家の娘が嫁いだことを示しているのです。江戸の大名屋敷には、彦根藩井伊家、佐賀藩鍋島家の赤門も有名でした。大名にとって将軍家と婚姻関係があることを象徴するシンボルです。

 東大の赤門は1827年、加賀藩13代藩主・前田斉泰が、11代将軍・徳川家斉の娘・溶姫を迎え入れた時に建てられました。ちなみに溶姫は家斉の21番目の娘です。家斉には50数人の子供がいて、男の子なら有力な大名家に養子に、女の子なら嫁がさなければなりません。受け入れる側も大変でした。

 赤門は火災などで焼失したりすると、再建は許されませんでした。このため加賀藩はお抱えの火消し、消防隊に警戒させたと伝えられています。加賀藩の消防隊は「加賀鳶」と言われ、勇猛果敢な消防隊として有名でした。その甲斐あって、焼失せずに残ったのです。関東大震災、空襲にも耐えてきました。ちなみに、現存する赤門は東大の赤門だけで、国の重要文化財に指定されています。

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加賀藩前田家が造営した赤門


 赤門をくぐって東大のキャンパスを散策するのも楽しいですよ。庭園に囲まれた三四郎池は、夏目漱石の小説「三四郎」から名付けられましたが、もとは加賀藩前田家屋敷の大名庭園の池です。二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が屋敷を訪問した際、将軍の目を楽しませようと造営した庭園と池です。東大の名所は、徳川将軍家とゆかりが深いのです。

※ 掲載の地図は「復元江戸情報地図」(朝日新聞社)から引用しました。

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2017年2月24日 (金)

2017年2月24日放送 日本のカタチ「新宿区・中野区編④」

2月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区&中野区編)です。
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24日放送では「象の飼育小屋」についてお話します。

 

 先週は犬小屋があった中野区桃園の旧地名の話をしました。現在の中野区には江戸時代、象を飼育していた小屋もあったのです。時は1728年6月。安南の国、現在のベトナム北部からオスとメスの二頭の象が長崎に運ばれました。メスの象は長崎で死んでしまったのですが、オスの象は陸路、ベトナム人の象使い、日本人の象使い見習いら総勢十数人の行列で京都へ向かい、当時の中御門天皇に謁見しました。なんと象は従四位の官位を授かったのです。というのも、天皇に拝謁するにはたとえ動物であろうと無位無官ではダメだということで、急きょ官位を与えたようです。将軍家から松平性を賜った高級大名並の扱いです。

 その後東海道を歩き、翌年の1729年6月に江戸に到着しました。なにしろ当時としては貴重な象です。街道には「象の飲水を用意する」「牛、馬を街道から遠ざける」「鐘をついてはいけない」というお触れが出ました。

 江戸城に入った象は八代将軍吉宗に謁見し、その後、浜御殿(現在・浜離宮庭園)で12年間、飼育されました。吉宗は江戸城に天文台を設けるなど、好奇心旺盛で有名なのですが、象の飼育に莫大な費用がかかり、災害があると逃げ出して危険だということで持て余し、払い下げることになったのです。

 払い下げられたのは中野村で農業を営んでいた源助という人物。源助は象の小屋を建てて飼育し、見物人から料金をとって、さらに茶店で饅頭を売るなど象のビジネスにいそしみました。でもわずか1年半で象は死んでしまいました。エサ代をけちったとも言われています。ちなみに源助は象のフンをはしかに効く薬「象洞(ぞうほら)」として売り出しています。源助は飼育している間、両国の盛り場などへ象を連れていき、象のフンの薬の販売を目論んだのですが、売れ行きはイマイチだったようです。

 死後、象の皮、牙、骨は幕府に上納され、その後、牙と骨は再び源助に払い下げられました。牙と骨は見世物として両国広小路、湯島天神などで、有料で展示されました。しかも売れ残った象のフンの薬を売ろうとしていたとも言われています。象は死んでもビジネスに利用されたのです。その後、牙は中野の宝仙寺というお寺に奉納されました。宝仙寺の寺宝として保存されていたのですが、第二次大戦の空襲で焼失したそうです。

 源助が象を飼育した象小屋は、現在の朝日が丘公園(中野区本町2−32)にあったと伝えられ、説明板が設置されています。

Photo   

長崎から江戸まで歩いた象の絵
(国立国家図書館デジタルアーカイブより)

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2017年2月24日放送 日本のカタチ

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