2017年2月17日 (金)

2017年2月17日放送 日本のカタチ「新宿区・中野区編③」

2月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区&中野区編)です。
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17日放送では「犬小屋と桃の名所」についてお話します。


 今週から中野区です。戦後になって住居表地が大きく変更され、歴史ある地名が次々に消滅しました。ただ、小学校の名前に歴史を残しているところも多いのです。中野区立桃園小学校です。桃園というのはかつて中野区にあった町名です。なぜ桃園なのでしょうか? 1735年、八代将軍吉宗がこのあたりに桃園の造営を命じました。6万7000坪(22万1千平方メートル)、東京ドームで約5個分の敷地に紅白の桃が咲き誇ったといいます。

 江戸に滞在する大名たちも桃の鑑賞に訪れたほか、庶民も多く見物に来ました。江戸名所図会にも描かれています。このあたりは江戸の郊外。周囲は農村でした。大勢の人がくると農作業にも影響が出ます。このため、吉宗は農民たちに副業として行楽客相手の茶屋の営業を認めました。

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江戸名所図会に描かれた桃園


 さて、桃の行楽地は、数十年前まではまったく違う景色でした。幕府の犬小屋があったのです。五代将軍綱吉が生類憐れみの令を発布し、野犬を保護するための施設だったのです。敷地面積30万坪(約100ヘクタール)。ここの犬小屋では、4万頭以上の犬を収容したと伝えられています。犬の餌の費用は膨大な額です。年間3万8500両。1両10万円として3兆8億5000万円。この費用は江戸市中の町、関東の村々で負担したと伝えられていますから、大変だったでしょう。

 綱吉が亡くなって生類憐れみの令は撤廃され、犬小屋の跡地の一部に桃園がつくられたわけです。犬小屋にいた犬のその後ですが、地域の住民が面倒をみることになったのですが、あまりに数が多いので今の埼玉県、神奈川県など首都圏に分散して預けられたと伝えられています。

 吉宗は飛鳥山などに桜を植樹して、花見の名所をつくったことで有名ですが、桃の名所もつくったのです。吉宗は庶民に人気があるかどうかを気にしていたようで、天下の悪法といわれた生類憐れみの令の象徴だった犬小屋を、行楽地にする発想にはすごいものがあります。現在のJR中野駅から中野区役所、高円寺駅に至る一帯が犬小屋、そして桃園があったのですが、現在も中野区役所の前に犬の銅像があります。

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中野区役所前にある犬の銅像
(中野区ホームページより)

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2017年2月17日放送 日本のカタチ

2017年2月10日 (金)

2017年2月10日放送 日本のカタチ「新宿区・中野区編②」

2月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区&中野区編)です。
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10日放送では「牛込には牛がいた?」についてお話します。


 かつて牛込区という区がありましたが、淀橋区、四谷区と合併して新宿区になりました。現在は神楽坂、市ヶ谷、早稲田が昔の牛込地域です。今でも牛込警察署、牛込郵便局と牛込の名前を冠した施設が多くあります。この牛込、名前の由来は、牛が多くいた所と伝えられています。武蔵風土記は「武蔵の国は原野が多く、駒込、馬込は牧場があったところで、牛込は牛が多くいた。込とは多く集まるという意味」と記しています。

 日本で酪農が本格的に行われたのは、八代将軍吉宗の時代、1727年からです。白牛3頭を輸入し、現在の千葉県で飼育を始め、100頭近くまで繁殖させました。絞った牛乳に砂糖を入れて煮詰めて乾燥させた「白牛酪」をつくり、市販しました。幕府直営の乳製品です。バターが乾燥した感じでしょうか。削って食べたり、お湯に溶かして飲んだりしたようです。ただし、かなり高価だったようで売れ行きはよくありませんでした。しかも、販売場所は江戸城・雉子橋(千代田区一ツ橋)の厩でした。主に将軍家や大奥で食されていたようです。

 さて、牛込ですが、江戸の古地図をみると、大昔、牛が多くいたという風情はありません。旗本屋敷ばかりです。ところが、明治なると風景は一変します。明治維新後、主がいなくなった旗本屋敷など武家屋敷が荒れ放題。治安対策と殖産興業を兼ねて、また外国人の間で牛乳をもとめる需要が多かったこと、日本人の健康増進という側面からも東京で牧場があちこちに出来たのです。

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江戸切絵図「牛込市谷大久保絵図」に描かれた牛込地域。
江戸時代は武家屋敷が多い地域だった


 明治15年の東京の酪農業者の資料がありますが、それによると、麹町区の118頭を筆頭に神田、日本橋、京橋で牛が飼育されています。牛込区には21頭の乳牛が飼育されていました。まさに牛込です。東京には牛乳1杯を注文すれば新聞をタダで読めるという「新聞縦覧所」も各地で出来ました。ただ、東京が近代都市になるにつれて、牧場は悪臭を出し衛生上良くない、などの理由で牧場は廃れていきます。

 牛込といえば面白いエピソードがあります。江戸の人たちは「猫を10年飼うと人の言葉をしゃべる」と信じていたそうです。特に牛込の猫はよくしゃべっていたとか。町奉行を務めた根岸鎮衛が町の噂話を集めた「耳袋」という随筆を書いていますが、ここでも牛込の猫はよくしゃべると書いています。牛込の名主の家に生まれた夏目金之助(夏目漱石)が、しゃべる牛込の猫をモチーフにして「吾輩は猫である」という名作を世に出したと言われています。

※掲載の古地図は「もち歩き 江戸東京散歩」(人文社)から引用しました。

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2017年2月10日放送 日本のカタチ

2017年2月 3日 (金)

2017年2月3日放送 日本のカタチ「新宿区・中野区編①」

2月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区&中野区編)です。
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3日放送では「水と縁が深い新宿副都心」についてお話します。


 きょうは、東京都庁、京王プラザホテルなど超高層ビルが建ち並ぶ新宿副都心の移り変わりをお話しましょう。大規模な開発ができたというのは、広大な土地が用意されていたことがしのばれます。時代をさかのぼれば、このあたり一帯は淀橋浄水場という浄水施設がありました。淀橋という名前は現在の新宿区と中野区の境界を流れる神田川に架かっていた橋の名前です。もともとは姿不見橋(すがたみずばし)と呼ばれていました。ある人が財宝を奉公人に運ばせて小金井に隠したのですが、奉公人からうわさが漏れるかもしれないと思って、この橋で奉公人を殺害したので、この橋を渡ると二度と帰れないということから姿みず橋となったのですが、三代将軍家光が鷹狩に来て「不吉な名前だ」というので淀橋に変更させたと伝えられています。江戸名所図会にも水車小屋とともに淀橋が描かれています。

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江戸名所図会に描かれた淀橋


 新宿区はかつて、淀橋区、牛込区、四谷区に分かれていたように、淀橋は地名になっていたのです。新宿区になってからも淀橋の地名は残っていましたが、現在は西新宿に統一されました。家電量販店のヨドバシカメラは、この淀橋で設立されたことにちなんでいます。

 前置きが長くなりましたが、淀橋浄水場の経緯についてお話します。明治19年、東京でコレラが流行しました。それまで東京は、江戸時代のインフラである玉川上水と神田上水をそのまま使っていました。衛生的な水道を整備するため、玉川上水が流れていた新宿から用水路を引き、整備したのが淀橋浄水場です。1965年に東村山に新しい浄水場ができて、淀橋浄水場は廃止され、副都心整備がされたのです。

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現在の新宿副都心にあたる江戸時代の角筈村。
熊野十二社の池の付近が現在の新宿中央公園


 さらに時代を遡って江戸時代、この淀橋界隈を古地図でみると、角筈村となっています。角筈村は江戸の西のはずれでした。角筈村に囲まれるようにして熊野十二社(十二社権現)があって、池がありますね。江戸名所図会にも描かれています。なんと滝がありますね。池と滝の景勝地だったのです。池の周りには茶屋、料理屋が建ち並び、舟遊びも行われていました。

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熊野十二社付近には江戸時代、滝があった(江戸名所図会)より


 さて、角筈村の景勝地は現在、何になっていると思いますか? 新宿中央公園です。新宿中央公園を歩くとナイアガラの滝を模した人口の滝があります。江戸の行楽地、浄水場、そして公園になって滝が戻ってきました。古地図を見ると、昔と今が水で結ばれていることが分かり、面白いのです。

※ 掲載の地図は「復元江戸情報地図」(朝日新聞社)から引用しました。

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2017年1月27日 (金)

2017年1月27日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る④」

1月のテーマは「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る」です。
1月27日放送では「六間堀の敵討ち」についてお話します。


 きょうは、時代小説「鬼平犯科帳」第7巻第6話「寒月六間堀」の舞台です。これは、長谷川平蔵が本所竪川・二の橋たもとの軍鶏鍋屋「五鉄」で酒を飲みすぎて宿泊し、そのまま2日間行方知らずになったという話です。その裏で平蔵は、息子を殺害した敵を見つけた西国の年老いた武士に出会い、助太刀を申し出て、敵の動向を探っていたのです。平蔵が隠密理に助太刀をしたのは、火付盗賊改の役目とは関係がないうえ、正式の敵討ちではないからです。武士の敵討ちは親、兄など目上の縁者を殺された時に認められ、息子や弟の敵討ちは認められなかったからです。

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竪川・二之橋。長谷川平蔵が酒を飲みすぎて宿泊した
軍鶏鍋屋「五鉄」は後方の木のあたりにあったとの設定だ

 平蔵は信頼する密偵だけを使い、敵を尾行します。竪川・一の橋近くの弁天社(江島杉山神社)の参道に平蔵と老武士が身を潜め、屈強な浪人に守られた、かごに乗った敵が一の橋に近づいてくるのを確認。六間堀の猿子橋へ先回りして、待ち伏せし、老武士は見事に敵討ちを果たします。この敵討ちの尾行ルートは小説で詳しく描かれていて、たどることができます。ただし、六間堀の運河は埋め立てられ、猿子橋は存在しませんが、現在の都営地下鉄・森下駅のA2出口の隣、新大橋通り沿いの公園が六間堀跡です。この公園の幅が六間堀の川幅です。陸橋から反対側に渡り、そのまま道路を小名木川方向へ歩くと常磐一丁目交差点(江東区常盤1)があります。ここが猿子橋跡です。

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長谷川平蔵が助太刀した敵討ちの現場、猿子橋があった常盤1丁目交差点


 実は猿子橋で実際に敵討ちがありました。ある大身旗本の家臣が同僚に殺害されたのですが、旗本家では対面を保つため事件を隠蔽しました。納得できない妻と娘が6年後、助太刀を得て猿子橋で敵に立ち向かいました。相手は重傷を負い間もなく死亡。旗本の対面に挑んだ妻と娘は町奉行所の取り調べを経て、おとがめなしでした。1798年のことです。

 実は江戸時代、武士以外でも敵討ちと認められれば無罪放免されたのです。江戸後期からは農民ら武士以外の人達による敵討ちが増えています。一方で旗本や御家人ら幕臣の刃傷沙汰は少なくなかったのですが、敵討ちはほとんど見当たりません。武士では地方の大名家の武士の敵討ちが圧倒的に多いのです。江戸考証家の三田村鳶魚は「幕臣は都会の武士として生活本位になり、義理や道理から離れていった」とその理由を説明しています。サラリーマン化していったのですね。

 富山藩では殺害された父親の敵討ちをしないとの理由で、屋敷と家財を没収され追放された藩士もいました。武士道の地方と江戸の格差は顕著だったようです。

 小説の老武士は20数年かけて敵討ちをしたのですが、江戸時代で敵討ちの最長記録は53年です。山伏だった夫を農家の男に殺され、妻と息子が53年かけて敵を現在の福島県で見つけ、討ち果たしたという記録があります。1853年のことです。

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長谷川平蔵と老武士が身を潜めた弁天社(江島杉山神社)参道

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2017年1月27日放送 日本のカタチ

2017年1月20日 (金)

2017年1月20日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る③」

1月のテーマは「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る」です。
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20日放送では「鬼平の勘働きの原点 目黒行人坂」についてお話します。


 先週は目黒不動のお話をしましたが、江戸から目黒不動に向かう参道の起点が行人坂と呼ばれる坂道です。JR目黒駅西口からすぐのところに行人坂の入り口があります。全長150メートル。勾配のきつさは相当のものです。鬼平犯科帳の小説では、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵は妻の久栄から「年寄りじみて、およしあそばせ」と言われながらも、亡き父・長谷川宣雄愛用のつえを手に行人坂を歩いています。

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行人坂。右手が大円寺


 作者の池波正太郎が行人坂の描写で、父宣雄を持ち出すところは「さすが」と思わせるのです。作品では触れられていませんが、史実の父親の宣雄と行人坂とは深い因縁があるのです。

 1772年2月、行人坂沿いの大円寺というお寺から出火し、火は強風にあおられ麻布、神田、日本橋、田端、千住にまで燃え広がりました。死者1万4700人、行方不明4060人。目黒行人坂の大火と呼ばれ、江戸三大大火の一つに数えられています。この時、火付盗賊改方長官だったのが平蔵の父宣雄でした。2カ月に及ぶ捜査の結果、宣雄は行状のよくない修行僧、大円寺とは関係のない修行僧ですが、彼を放火容疑で逮捕しました。逮捕の端緒は、この修行僧が歩いているのを町で見かけたのですが、立派な袈裟を着ているのに足袋をはかず、かかとにあかぎれがあった。袈裟は盗んだものに違いないとにらんだのです。さらに、この人物を周辺捜査すると、過去にさまざまな悪事を働いていたことが分かり、証拠を固めて逮捕したのです。修行僧は盗み目的で大円寺に忍び込み放火したことを自供し、処刑されました。

 宣雄はこの手柄でまもなく京都西町奉行に抜擢されました。将来は旗本の最高ポストである江戸の町奉行の候補だったのですが、京都在任中に急死しました。平蔵は父親とともに京都にいて、父から捜査、裁判、部下の用い方などの実務を学び、その後、火付盗賊改方長官になった平蔵が活躍したのです。

 幕府の人事報告書「よしの冊子」に平蔵の働きぶりは神業のようだと書かれています。火事現場に赴いた際、立派な袈裟を着た僧侶と、高級旗本のような立派な衣服の武士が立ち話しているのを怪しいとにらみ、捕らえて調べると2人とも盗賊だったことが判明。また、近隣住民にコメや現金を施し、慕われていた剣術家を怪しいとにらみ、捕らえると盗賊の首領だったというエピソードが多く記されています。今だと見込み捜査と批判されそうですが、こうした勘働きは父親ゆずりなのかもしれません。

 ちなみに「よしの冊子」には、市中見廻りの途中、派手な夫婦喧嘩に遭遇した平蔵が仲直りをさせたことも記されています。小説の鬼平犯科帳で描かれる平蔵も勘働きが鋭く、しかも庶民への思いやりを持っています。史実と小説の平蔵が限りなく一致しているように思えます。
 ちなみに、行人坂沿いに再建された大円寺には、大火で犠牲になった人々を供養する五百羅漢など520体の石仏像などが残されています。

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大火の犠牲者を供養するために彫られた石仏群


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2017年1月20日放送 日本のカタチ

2017年1月13日 (金)

2017年1月13日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る②」

1月のテーマは「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る」です。
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13日放送では「目黒不動尊」についてお話します。


 目黒不動尊(龍泉寺)は鬼平犯科帳にたびたび登場します。文春文庫版の第18巻第1話「俄か雨」は、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が目黒不動を参詣して、目黒名物のタケノコ飯を食べようと思い立つ、のどかな描写で物語が始まります。目黒不動周辺の情景を次のように描いています。「名物はタケノコ飯に黒飴、粟餅だ。平蔵は門前の料理屋のタケノコ飯が好物だし、妻の久栄は門前の桐屋で売っている黒飴の味を懐かしがる」と。

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深い木立に囲まれた目黒不動尊

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江戸名所図会に描かれた目黒不動門前の桐屋。
鬼平犯科帳では、ここで売っている黒飴は長谷川平蔵の妻久栄の好物だ


 平蔵の妻久栄は多くの作品で桐屋の黒飴が好きだと書かれていますが、実は桐屋の黒飴は実在していました。江戸名所図会にも桐屋の店舗が描かれています。今は、東北自動車道・羽生パーキングエリアの鬼平江戸処で「桐屋の黒飴」が販売されています。

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東北自動車道羽生ニューパーキングエリア「鬼平江戸処」で販売している「桐屋の黒飴」

 江戸時代、現在の目黒区は江戸ではありませんでした。ただ、目黒不動では現在の宝くじにあたる富くじの抽選会が行われるなど相当に賑わっていました。人が集まればもめごと、犯罪も起きるということで、目黒不動周辺は江戸ではないのに、江戸の町奉行所の管轄でした。江戸の外に町奉行所管轄地があったのは目黒不動周辺だけです。

 当時の目黒は名所が多く、錦絵にも多く描かれています。富士山、江戸湾、趣のある田園風景の3点セットを展望できる景勝地だったのです。ですから、ハイキングに来る人も多かったようです。

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歌川広重が描いた目黒・茶屋坂の風景


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錦絵に描かれた茶屋坂は現在、住宅地になっている


  ハイキングというと、とてもユニークな人がいました。徳川御三卿・清水家に仕えていた村尾正晴という御家人です。非番の日の散歩が趣味だったのですが、半端ではありません。60歳だった1819年、村尾は午前4時頃に江戸城近くの自宅を出て桶川(埼玉県)まで歩き、そのままUターンして深夜に自宅に戻りました。浅間山(長野、群馬県境)が見える所まで行きたかったといのが理由。帰りは途中で馬に乗ったのですが、片道40キロ。すごいですね。

 村尾は数多くの江戸郊外の遠距離散歩の記録を「江戸郊外道しるべ」という手記に残しています。ほとんどが日帰り。なぜかというと、旗本と御家人、いわゆる幕臣は原則として外泊できなかったからです。いざという時、すみやかに出動するのが幕臣の務め。そのため江戸を離れるときも幕府に許可を得なければなりませんでした。時代劇などでは旗本が妾をかこっている別宅に外泊するというシーンもありますが、外泊が発覚すれば処罰されました。

 さて、散歩の鉄人とも言える村尾ですが、70歳を過ぎても江戸郊外の遠距離散歩を楽しみ、82歳で天寿をまっとうしました。

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2017年1月13日放送 日本のカタチ

2017年1月 6日 (金)

2017年1月6日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る①」

1月のテーマは「鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探る」です。
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6日放送では「三囲神社と隅田川七福神めぐり」についてお話します。


 昨年12月、中村吉右衛門さん主演のテレビドラマ「鬼平犯科帳」が150作目で最終回を迎えました。実に28年間も続いたシリーズです。小説で鬼平犯科帳が登場して半世紀が過ぎましたが、小説の累計発行部数は2700万部を超え、今も読み継がれています。私は毎日新聞旅行の散歩ツアーで「鬼平犯科帳を歩く」というツアーの講師をしていることもあって、今月は番外編として鬼平犯科帳の舞台から江戸と東京のつながりを探っていきましょう。

 文春文庫の小説「鬼平犯科帳」第22巻は「迷路」というタイトルの特別長編です。火付盗賊改方の与力、長谷川平蔵の親族ら平蔵にゆかりの深い人たちが相次いで殺害されるところから物語は始まります。平蔵最大の危機に見舞われた小説です。

 この作品では、「玉村の弥吉」という火付盗賊改方の密偵が三囲神社の本殿に拝礼し「どうか一日も早く、悪いやつどもがお縄にかかりますように。長谷川平蔵様のご難儀をお救い下さいますように」と祈願します。

 隅田川の土手を歩くと一段下がって参道が伸びていること、対岸に待乳山聖天の屋根がこんもりした木立に見えることといったように、江戸の情景をスケッチした江戸名所図会、古地図を組み合わせて作者の池波正太郎は丹念に三囲神社の情景を描いています。

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三囲神社の社殿。
白狐の石像は江戸時代、三井越後屋が奉納した


 この三囲神社、いつ創設されたのかは定かではありませんが、南北朝時代に荒れ果てた社殿を再建した際、地中から神像が掘り出され、その神像のまわりを白い狐が三度回ったことから「みめぐり」と呼ばれるようになったとの言い伝えがあります。そして江戸時代の元禄年間、江戸の呉服店「越後屋」を経営する三井家の守護社となりました。「三囲」の囲という字は、「井」を囲んでいることから三井家を守るとされたのです。社殿手前の白狐の石像は越後屋が奉納したものです。現在も三井グループとかかわりが深く、2009年に閉店した三越池袋店のシンボルだったライオン像も、白狐の石像近くに置かれています。

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三越池袋店にあったライオン像が鎮座している


 この三囲神社には七福神の大国神、恵比寿神がまつられ、隅田川七福神めぐりの一つになっています。隅田川七福神めぐりの面白いところは1カ所、神社仏閣とは関係のない舞台があることです。福禄寿がまつられている向島百花園です。江戸の民営の植物テーマパーク「百花園」から続く庭園です。百花園の経営者は仙台出身の佐原鞠塢(さわら・きくう)という骨董商で、彼は福禄寿の胸像を所有していました。これで何か正月らしい遊びはできないかと、江戸を代表する文化人らと相談。周辺の寺社を調べると、弁財天、布袋尊など七福神を祭っているところがあるから、七福神巡りをしようと考えたのです。ただし、寿老神をまつっている寺社がありませんでした。そこで目をつけたのが百花園に近い白鬚神社。「白鬚」だと寿老神にふさわしい、ということで白鬚神社に寿老神をまつってもらい、百花園には経営者の骨董商が持っていた福禄寿をまつり、七福神のコースが完成しました。1805年前後のことです。

 江戸で七福神巡りが本格化するルーツといえる隅田川七福神めぐりは、明日7日まで七福神が開帳されています。ぜひお出かけになって下さい。

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2017年1月6日放送 日本のカタチ

 

2016年12月30日 (金)

2016年12月30日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区編④)

12月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区編)です。
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30日放送では「百人が住んでいた? 新宿区百人町の由来」についてお話します。


 新宿区百人町という町名をご存知ですか? 最寄り駅はJR新大久保駅です。コリアンタウンとして有名ですね。飲食店が多い町です。江戸の古地図を見ると、町名のルーツが分かります。

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現在の新宿区百人町周辺は江戸時代、
「百人組同心 大縄地」だった


 「百人組 同心 大縄地(おおなわち)」というのが5カ所ほどあります。ここが現在の百人町です。将軍の家来である御家人は、さまざまな職務につきます。有名なのは「必殺仕事人」の中村主水のような町奉行所の同心ですね。現在の警察官です。百人組というのはこの同心の人たちが所属する組織で、分かりやすく言えば鉄砲隊のことです。いざという時、将軍家や江戸城を防衛する組織で、伊賀組、根来組、甲賀組、二十五騎組の4組にそれぞれ100人の鉄砲隊が配属されたので百人組といいます。

 大縄地というのは集合住宅のような官舎という感じです。江戸時代は組屋敷とも呼ばれていました。

 伊賀組、根来組、甲賀組と聞いて思い浮かぶことはありますか? そうですね、忍者ですね。鉄砲は特殊な技術が必要だということで、忍びの者の子孫が中心となって百人組の兵隊を務めたといわれています。彼らの普段の仕事は江戸城大手門の三之門にある番所に交代で務め、江戸城を警備したほか、将軍が徳川家の菩提寺である増上寺、寛永寺に参詣する時に、寺院の警備も務めました。大手門三之門の百人組が詰めた番所は現存しています。皇居東御苑に大手門から入ると、三之門のそばに、その名も「百人番所」という詰め所があります。

 さて、現在の新宿区百人町ですが、江戸時代、ここには伊賀組の100人鉄砲隊、伊賀百人組が住んでいました。ということは、二十五騎組、根来組や甲賀組の百人町もあったのです。例えば、根来組は市ヶ谷に、甲賀組は青山にそれぞれ組屋敷がありました。明治以降、根来百人町、青山百人町という町名があったのですが、現在も残っているのは新宿の百人町です。

 ツツジの季節になると、新宿では毎年「大久保ツツジまつり」が開催されていますが、この祭りは伊賀の百人組にルーツがあるのです。百人組に属していた同心は下級の武士で給料はとても低かったのです。今の価値に換算すると幅はありますが年収150〜250万円といったところでしょうか。その代わり、官舎は広く、庭もあって、しかも家賃はタダ。この庭で内職としてツツジ栽培をしたのです。ツツジの展示即売会のようなものも行われ、それで副収入を得ていました。百人町、大久保はツツジの名所となり、現在もツツジまつりとして受け継がれているのです。

 青山の百人組は傘、市ヶ谷の百人組は提灯、とそれぞれ内職をしていました。ツツジ栽培、傘、提灯はプロ職人の腕前だったと言われています。

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2016年12月30日放送 日本のカタチ

2016年12月23日 (金)

2016年12月23日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区編③)

12月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区編)です。
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23日放送では「高田馬場はどこにあった?」についてお話します。


 JRの駅名に高田馬場があります。歴史好きな方でしたら、「高田馬場の仇討ち」をご存知だと思います。後に忠臣蔵で有名になる堀部安兵衛が1694年、浪人だった頃、高田馬場で行われた仇討ちに助太刀し、大活躍した舞台です。

 古地図の高田馬場を見てみましょう。1636年、3代将軍家光が、旗本が馬術を学ぶ場として作った馬場です。なぜ高田の馬場となったかについては諸説あります。まず、このあたりが高台だったので、高田馬場になったとの説。江戸名所図会をみると「高田富士」という山も描かれています。もう一つ、徳川家康の側室「お茶阿の方」、通称・高田の君がこのあたりを散策するのが好きだったから高田馬場になったとの説があります。1728年、8代将軍・吉宗が病気がちだった世継ぎの健康を祈って、高田馬場で流鏑馬を開催し、以後は将軍家の若君が生まれた折に、流鏑馬が行われるようになりました。

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江戸時代と現代の地図を重ね合わせると、
歴史上の高田馬場は早稲田大学に近い早稲田通り沿いにあったことがわかる


 ところで高田馬場はJRの駅名になっていて、駅の周囲に新宿区高田馬場という町名になっていますが、古地図に描かれた乗馬の訓練場の高田馬場とはまったく違う場所です。現在の早稲田通りの西早稲田交差点付近が、高田馬場の東端。ここから西へ500メートルほど早稲田通り沿いに高田馬場は広がっていました。住所で言えば、新宿区西早稲田です。最寄り駅は地下鉄東西線の早稲田駅なのです。JR高田馬場駅、新宿区高田馬場の町名とはまったく違う場所です。

 なぜ、こんなことになったのか? 1910年に山手線の駅がつくられた時、駅周辺と歴史上の高田馬場があった一帯は戸塚町という町名でした。ですから地元の人々は「戸塚」という駅名を要望していたのですが、当時の鉄道院という役所が歴史上名高い「高田馬場」を駅名にしてしまったのです。その後、西武と地下鉄東西線も山手線にあわせて高田馬場を駅名としました。

 しばらくは戸塚町にある高田馬場駅という奇妙な組み合わせが続きましたが、昭和50年(1975年)、新宿区は区内の住所変更を実施した際、駅周辺を駅名にあわせて戸塚町を高田馬場に変更し、高田馬場があったあたりの戸塚町を西早稲田という町名にして戸塚町を分割したのです。現在の高田馬場には、高田馬場は存在しなかったということになります。ややこしいですね。

 歴史上の高田馬場跡に早稲田水稲神社があります。江戸時代は馬場の外側にあったのですが、昭和30年代に馬場跡に移転しました。境内には仇討の堀部安兵衛の石碑があります。また吉宗が流鏑馬を奉納した穴八幡宮には、流鏑馬の銅像があります。すでにお話した箱根山のある戸山公園にも近いので、このあたりの歴史散策も楽しいですよ。

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歌川広重が描いた錦絵。
高田馬場から富士山も見えていた


※ 掲載の地図は「復元江戸情報地図」(朝日新聞社)から引用しました。

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2016年12月23日放送 日本のカタチ

2016年12月16日 (金)

2016年12月16日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿区編②)

12月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(新宿編)です。
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16日放送では「新宿の由来」についてお話します。


 新宿と言うと、日本で最大の乗降客数を誇るJR新宿駅があり、東京都庁もあって日本を代表する大都市ですね。江戸の古地図を見てみましょう。内藤駿河守の下屋敷があります。内藤家は信濃高遠藩(長野県)の藩主です。歴史をさかのぼると、1590年、徳川家康が豊臣秀吉の命令で江戸に領地替えになった時、譜代の家臣だった内藤清成に馬にのって駆け回った土地をお前に与える、と言って、内藤清成が拝領した屋敷です。その後、内藤家の下屋敷になりました。6万7千坪(22万1千平方メートル)、東京ドーム5個分の広さです。馬で駆け回った割には狭いような気がしますが、内藤清成は遠慮したのでしょうか。

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内藤家屋敷の敷地内を流れていた玉川上水の分水が復元されている


 実は、古地図に記載されている内藤家の下屋敷は江戸後期のもので、江戸時代初期にはもっと広大だったのです。なぜ小さくなったのか? 一部の土地を幕府に返上して宿場町にしたのです。

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内藤駿河守下屋敷(現・新宿御苑)の敷地内に玉川上水の分水が流れている。
内藤家屋敷の上の甲州街道の両側に内装新宿の宿場町がある

  江戸から諸国へ通じる街道の一つ、甲州街道は江戸を出発して最初の宿場町が高井戸でした。日本橋から16キロの距離。もっと手前に宿場町があったほうが便利だということで、江戸の商人たちが新しい宿場町の開設を幕府に願い出て、幕府は5600両(約5億6千万円)の上納金を納めることを条件に許可しました。その宿場町の土地として内藤家の下屋敷の一部が使われたのです。内藤家の屋敷の土地で出来た、新しい宿場町ということで、宿場は内藤新宿と呼ばれるようになったのです。新宿という地名のルーツです。宿場町は1698年、現在の伊勢丹から新宿1丁目あたりの間の甲州街道沿いに建設されました。

 甲州街道は他の街道に比べて、参勤交代の大名行列が極めて少なく、そのため武士や町人の歓楽街の雰囲気を強めていきました。風紀が乱れ、1718年に内藤新宿は廃止されました。その後、江戸の都市経済発展に伴い、郊外から物資を運ぶ産業道路として甲州街道の往来が多くなったため、1772年に宿場町は復活しました。馬で荷物を引く車が多かったので、馬糞が多い街道とも言われました。

 さて、明治以降、内藤家の下屋敷は明治政府に接収され、近代農業を普及させる内藤新宿試験場、さらに当時の宮内省が管轄する植物園「新宿植物御苑」へと生まれ変わり、戦後に「新宿御苑」となったのです。今や宿場町という風情はありませんが、新宿御苑近くには甲州街道の出入りを監視していた四谷大木戸、江戸の水道が引き込まれた玉川上水の跡があったことをしのばせる石碑があります。

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四谷大木戸跡の石碑


※掲載の地図は「復元江戸情報地図」(朝日新聞社)から引用しています。

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2016年12月16日放送 日本のカタチ

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