2017年6月16日 (金)

2017年6月16日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ⑦」

小松健一さんの解説は
6月9日放送用で掲載されたブログをご参照ください

音声はこちらkaraoke
2017年6月16日放送 日本のカタチ

2017年6月 9日 (金)

2017年6月9日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ⑥」

6月のテーマは「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る」です。
6月9日放送では「長谷川平蔵はどうして人気があったのか」についてお話します。


 先週お話したように、火付盗賊改方は軍事警察です。普段は軍隊の御先手組で江戸城の御門警備をしていました。それが突然、火付け盗賊改方をやれ、と命令がくだります。御先手組の頭は火付盗賊改方長官に、部下の与力、同心は軍人から警察官に早変わり。だから捜査も取り調べも荒っぽかったのです。えん罪が多かったと言われています。

 平蔵が活躍する100年前、1670年ごろに中山勘解由という旗本がいました。彼は長官になると自宅にあった仏壇を捨てたそうです。「盗人を取り締まる仕事だから仏心は無用」というのが理由だそうです。拷問も日常的に行われ、役宅から悲鳴が外の路上に聞こえた、という話も残っています。

 一方、長谷川平蔵は一切の拷問を禁止し、情けを尽くして取り調べるように徹底しました。平蔵はさらに、捕り物に出動するときは部下の同心たちに十手を使うなと命じました。頑丈な十手で相手の頭を打つと、死なせる場合があります。容疑者を傷つけることなく逮捕して取り調べる方針を徹底していました。

 こんなエピソードがあります。部下の同心が逮捕した容疑者に逃げられてしまいました。町奉行所も後を追います。ところが、1ヶ月ほどして容疑者は役宅に出頭してきました。理由は「捜査の網が狭まってきた。町奉行所につかまるのは嫌だ。仏心のある長谷川様につかまりたい」とのことでした。

 平蔵が町人に人気があったのは、さらに理由があります。現行犯犯罪は多くの場合、町人が逮捕しました。110番通報がない江戸のこと、深夜だと町々にあった番所に拘留しました。拘留すると見張りの人の人件費、食事代がかかります。長谷川平蔵は24時間役宅をあけて、いつでも役宅に届けるようにと町にお触れを出しました。しかも届け出た人には、蕎麦や夜食をふるまったそうです。盗人が町で捕まった場合、町奉行所か火付盗賊改かどちらかに届けるのですが、平蔵が長官だった頃は火付盗賊改に届けることが多かったそうです。町人に優しく接するエピソードは数多く、こうしたことも平蔵人気を高めました。

 また平蔵は地方から江戸に出てきたものの、仕事につけず、裏社会に入らざるを得なかった人たち、軽微な罪で捕まった人たちを収容する人足寄場を建設し、そこで職業訓練を施し社会復帰させました。更正させるということで、江戸の治安を守ったのです。

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長谷川平蔵が石川島(現・中央区佃)に建設、
運営した人足寄場跡は高層マンションになっている


 見回りの途中、夫婦げんかがあると仲裁に入り、腹を空かせたホームレスがいると小遣いをあげたとも伝えられています。荒っぽかった火付盗賊改方のイメージを「温情的」と改善したことで、平蔵の人気は高かったのです。

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人足寄場に建てられていた灯台のモニュメント。
中は公衆トイレ


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2017年6月9日放送 日本のカタチ

2017年6月 2日 (金)

2017年6月2日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ⑤」

6月のテーマは「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る」です。
6月2日放送では「火付盗賊改方と町奉行所の関係」についてお話します。

 

「鬼平犯科帳」(池波正太郎著、文春文庫)では、火付盗賊改方と町奉行所はライバル関係にあると描かれています。大事件では常に長谷川平蔵が率いる火付盗賊改方の鬼平軍団が手柄をあげます。実際はどうだったか? 

 長谷川平蔵が活躍した1790年前後の町の人々、旗本や御家人ら幕臣の噂話を書き留めた幕府の報告書が残されています。そこには平蔵のことも多く書かれていて、町奉行所との関係では、平蔵に軍配をあげています。たとえば、平蔵の活躍がめざましく「なにもかも長谷川平蔵に先を越され、町奉行はへこんでいる」とか、町の商店の店主を集めて物価を抑えるよう通達を出したりする場合、みんなに説得するために平蔵を同席させたといったことが書かれています。

 火付盗賊改方長官は幕府の軍事組織である御先手組の頭(隊長)から任命されます。御先手組頭の収入は1500石。これに火付盗賊改の長官の役職手当30人扶持(約75石)が加算されます。一方、町奉行の収入は3000石。今の価値に換算すると、火付盗賊改方長官は概算で5000万円、町奉行は9600万円といったところでしょうか。同じ旗本でも町奉行の方が格上。ですから、町人の間では「平蔵はあんなに頑張っているのだから、早く町奉行に昇進してほしい」といった声まで出ていました。

 江戸時代の官僚ともいえる旗本には、役職は大別して「役方」と「番方」に分けられます。役方とは行政を担う文官、番方とは軍事担当の武官です。天下太平の世の中になると、武士は本来軍人であるのに、番方の地位の方が低くなります。火付盗賊改方長官を兼務する御先手組頭は軍事部門の最高ポストであるのに、役高(収入)面では幕府の官僚組織の中でさほど高くありません。江戸のシビリアンコントロールといえるでしょうか。

 さらに火付盗賊改方は放火と盗賊を取り締まる軍事特別警察です。もともと江戸時代初期の盗賊は、関ヶ原の戦いまでは武将の指揮下にあった忍びの者だったと言われています。徳川の世になり、取りつぶされた武将の忍びの者が盗賊に転じたそうです。武芸を心得た忍びの盗賊には、軍事警察である火付盗賊改方がふさわしかったのかもしれません。さらに火付も担当になっているのは、火事に乗じて盗みを働く者がいたり、火事があると別の場所に放火して町を混乱させて、盗みを働いたりする輩が多かったので、火付と盗賊がセットになったようです。

 火事があると、火付盗賊改方も出動します。長谷川平蔵は家紋の入った高張りちょうちんを多数掲げさせたといいます。実際には平蔵本人は現場に来ていないものの、あたかも平蔵が多数の部下を従えて警戒しているという雰囲気をつくり、盗みを防いだと言われています。ちなみにテレビドラマに登場する「火盗」提灯はありませんでした。

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北町奉行所の敷地は現在、
JR東京駅に隣接する「大丸」東京店になっている

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JR有楽町駅近くに南町奉行所があった。
奉行所の遺構が残されている

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長谷川平蔵の屋敷跡は現在、
都営地下鉄の菊川駅になっている。
ここに役宅があった


2017年5月26日 (金)

2017年5月26日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ④」

5月のテーマは「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る」です。
5月26日放送では「鬼平は花見の雑踏警備をした?」についてお話します。


 先週に続き王子が舞台です。飛鳥山については、これまでもこの番組でお話しました。おさらいで要点を言うと、八代将軍・徳川吉宗の指示で江戸城の吹上庭園で育てた桜の苗木1270本を植樹し、山裾に茶屋、遊技場(揚弓場)を完備した、江戸最初の桜のレクリエーション公園です。桜のシーズンが過ぎましたが、今日は飛鳥山の花見と鬼平の話をしましょう。

 専門家によると、飛鳥山は大騒ぎできた開放空間。江戸で一番自由に振る舞えて娯楽性の高い花見の場所だったそうです。江戸後期に書かれた「花暦八笑人」をモチーフにした落語に「花見の仇討ち」というのがあります。花見客でにぎわう飛鳥山で突然「親の敵!」との大声が上がり、巡礼姿の兄弟が浪人に挑みかかります。これは演技。近くにいた修行僧が仲裁に入り、教典を収める厨子(ずし)から酒と肴を出して見物客に振る舞うという茶番のはずでしたが、仇討ちを真に受けた武士が「助太刀いたす」と割り込んで大騒ぎになる、という落語です。

 将軍・吉宗も旗本や御家人ら幕臣たちに飛鳥山での花見を勧め、料理や酒を持たせて一般の花見客に振る舞うよう命じました。重箱や器に将軍家の葵紋があるのを見た庶民がのけぞるという茶番めいたもてなしでした。茶番だらけの飛鳥山の花見ですね。

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飛鳥山を桜の名所にした徳川吉宗をたたえる
碑文が刻まれたと伝えられる記念碑


 さて、「鬼平犯科帳」(池波正太郎著、文春文庫)で飛鳥山は3つの作品に登場しますが、火付盗賊改方長官、長谷川平蔵は飛鳥山の下の料理屋で酒を飲むばかり。飛鳥山近くの王子権現(王子神社)は小説の平蔵が参詣する寺社として最多登場であるにもかかわらず、平蔵は飛鳥山に登っていません。平蔵が花見を楽しむのは、駒込にある知人の旗本の別邸に招かれ、庭の八重桜をめでて一献した程度です。このささやかな花見は第7巻第7話「盗賊婚礼」に描かれています。

 飛鳥山は町奉行所管轄の江戸と、勘定奉行所管轄の豊島郡の境界にあります。江戸考証家の三田村鳶魚の「捕り物の話」によれば、警察の管轄権に縛られない火付盗賊改方が花見の雑踏警戒にあたったようです。酔っ払って暴れる者が多かったことも火付盗賊改方が出張った背景にあるかもしれません。花見シーズンの飛鳥山は、長谷川平蔵にとってお役目の舞台。酒宴で浮かれることはできなかったのかも知れません。小説と史料、文献をつきあわせると、あれこれ想像が膨らみます。
 ちなみに、現在はソメイヨシノが桜の主流ですが、ソメイヨシノは明治になって普及しました。江戸時代は早咲きから遅咲きまで、桜のバリエーションは今よりも豊富でした。そのため江戸では1カ月近く花見が楽しめたと言われています。

 飛鳥山周辺には江戸時代をしのばせるスポットがいくつかあります。西ヶ原一里塚は江戸時代の街道に一里(約4キロ)ごとにつくられた、エノキを植えた塚です。ここはほぼ完全な形で残されています。名主の滝は、江戸の名所でした。あわせて散策してみてください。

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街道の両側に築かれた一里塚。
東京都内では西ヶ原と板橋の2カ所で残っている

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名主の滝公園内の「男滝」


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飛鳥山と周辺の散策スポット

※ 掲載の地図は毎日新聞連載「鬼平を歩く」(2015年11月13日)から引用しました。

音声はこちら
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2017年5月26日放送 日本のカタチ

2017年5月19日 (金)

2017年5月19日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ③」

5月のテーマは「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る」です。

5月19日放送では「大名行列の迂回ルート 扇屋の卵焼き」についてお話します。

 「鬼平犯科帳」(池波正太郎著、文春文庫)第5巻第6話に「山吹屋お勝」という作品があります。王子の料理屋「山吹屋」が舞台です。架空の店ですが、「卵焼き」が名物で西側に音無川を隔てて王子権現(王子神社)があるとの小説の描写から、江戸時代の会席料理屋「扇屋」がモデルであることは間違いありません。

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江戸時代の音無川の雰囲気を再現した音無親水公園

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かつては後方のビルに料亭・扇屋があったが、
現在は手前の屋台で伝統の卵焼きを販売している


 扇屋は1648年に掛け茶屋として創業。1799年に料理屋を始めました。江戸名所図会に描かれ、幕末の開国後は外国人にも人気の店でした。十数年前に料亭を廃業し、今は屋台で伝統の厚焼き玉子を販売しています。

 この扇屋には面白いエピソードがあります。大名行列の裏話です。参勤交代があった江戸では大名行列がすれ違うことが頻繁にあり、徳川御三家の行列を前方に見つけると、他の大名行列は逃げるように脇道に入って迂回したそうです。かごを降りて御三家の行列に平伏するのが嫌だったからです。この話は、広島藩最後の藩主・浅野長勲(ながこと)が明治になって証言しています。大名行列では、前方から来る行列の大名が格上か格下か、神経をつかったそうです。

 これに関連して、扇屋14代目の早船武彦さんがこんな話をしてくれました。大名行列では、前方から来る行列の大名が格上か格下か、神経をつかったそうです。「中山道を行き交う大名行列が板橋宿あたりで混み合い、格下の大名が王子の街道に逃げ込んだ。その大名たちが扇屋を利用しました」。つまり、扇屋は遠回りする大名の格好の避難先だったというわけです。こうしたことから扇屋は旗本も利用する武家専門の料理屋になったそうです。大名をもてなす料理として扇屋の評判になったのが、西洋のパイに似た「釜焼き玉子」などの卵焼き。江戸時代、卵はとても高価なものでした。

 小説の「山吹屋お勝」では、扇屋がモデルの山吹屋は長谷川平蔵のいとこ、三沢仙右衛門がよく利用する店です。仙右衛門はここに働くお勝という女性に惚れてしまうのですが、平蔵はお勝の正体を見破り、と事件に発展してしまいます。

 扇屋周辺の街道は王子神社、王子稲荷神社の参道でもあったので、江戸時代の古地図を見ると茶屋が建ち並んでいます。小説の平蔵は見回りの途中、茶屋に立ち寄っては酒を飲んでいますが、今もこのあたりを歩くと朝から飲める立ち飲みのおでん屋などがあります。さすが鬼平ゆかりの地だな、と私はここに来ると、いつも感心して立ち飲み屋に入ってしまいます。

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扇屋周辺の地図

※ 掲載の地図は、毎日新聞連載「鬼平を歩く」(2015年11月6日)から引用しました。

音声はこちら
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2017年5月19日放送 日本のカタチ

2017年5月12日 (金)

2017年5月12日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ②」

5月のテーマは「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る」です。
5月12日放送では「被害者を守った最速の一件落着」についてお話します。


 時代小説「鬼平犯科帳」(池波正太郎著、文春文庫、全24巻)で実在した盗賊と事件を扱った作品があります。第2巻第2話の「妖盗葵小僧」です。時は1791年4月。徳川家の葵紋の提灯を掲げ、かごに乗って武士にふんした盗賊一味を従え、押し込み強盗を繰り返しました。しかも押し込み先の商家の女性たちを乱暴する非道な盗賊でした。幕府は軍隊である御先手組を総動員し、軍事力で治安維持にあたる戒厳令を敷いたほどです。史実でも小説と同様、火付盗賊改方長官、長谷川平蔵が召し捕りました。

 しかし、葵小僧は逮捕からわすか10日後の5月3日に処刑されたと伝えられている以外、記録は残っていません。明治時代の江戸考証家、三田村鳶魚(えんぎょ)は「長谷川平蔵の取り計らいだと思う」と書いています。要点を言うとこういうことです。葵小僧は押し入った商店で乱暴した女性たちのことを得意げに供述した。そうなると被害者からも調書を取らねばならない。しかし事件を思い出させるのは忍びない。平蔵は幕府に相談して取り調べを打ち切り結審し、即座に処刑。異例の早さでの一件落着でした。

 小説でも、この推論にもとづき、平蔵は葵小僧にこう通告をしました。<お前がな、油紙へ火のついたようにぺらぺらとしゃべりまくった気の毒な女たちのことは、この場かぎり、おれの胸の中へしまいこんで他にはもらさぬ!>
 被害者保護に徹した平蔵の心情ですね。小説では葵小僧は舞台役者上がりの盗賊との設定です。
 ところで、時の老中、松平定信は後に回顧録を書き残していて、そこには50数カ所に押し込んだ大松五郎という男を長谷川平蔵が逮捕したと記しています。時期、戒厳令下の江戸のことも書いていて、葵小僧は大松五郎だと思われます。しかし松平定信は大松五郎の単独犯行だと強調しています。葵紋の行列のことはまったく触れていません。

 火付盗賊改方与力として葵小僧探索に加わり、後に探検家として有名になった近藤重蔵が主人公の時代小説に「じぶくり伝兵衛 重蔵始末」(講談社文庫)があります。作者は逢坂剛さん。ここでは葵小僧の正体を含めて記録がない背景を、幕府の隠蔽工作との視点でスリリングに描いています。葵小僧は謎が深い。

 さて、小説で平蔵が葵小僧と一味を一網打尽にしたのは、藤堂和泉守(伊勢津藩主)上屋敷前の路上。現在の千代田区神田和泉町の和泉公園の付近です。藤堂家の和泉守の官職が町の名前になっています。近くには日本で二番目に古いと言われている「佐竹商店街」があります。秋田藩佐竹家の屋敷跡の商店街で、大名の名を商店街の名称にしました。全長約330メートルの商店街。ここを歩くと大名屋敷の広さが実感できます。鬼平の古地図散歩は、町名や商店街のルーツを知る手がかりにもなります。

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小説上の葵小僧摘発現場は和泉公園付近

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藤堂和泉守の屋敷跡の和泉公園

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秋田藩佐竹家の屋敷跡を貫く佐竹商店街

※ 掲載の地図は、毎日新聞連載「鬼平を歩く」(2016年3月4日)より転載しました。

音声はこちらです
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2017年5月12日放送 日本のカタチ

2017年5月 5日 (金)

2017年5月5日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ①」

5月のテーマは「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る」です。

5月5日放送では「巨悪退治の密偵基地 船宿『鶴や』」についてお話します。

 鬼平犯科帳には密偵という人たちが活躍します。盗賊で捕らえられたものの、長谷川平蔵の心意気に惚れ込み、命がけで平蔵のために働いています。文春文庫の小説全24巻に登場する密偵は約50人。すべて架空の人物ですが、実際に長谷川平蔵は密偵のネットワークを築き上げていたようです。

 幕府の制度をつづった明治時代の雑誌「江戸会誌」に、長谷川平蔵は「巧みに付人(つきびと)を用いていた」と書いています。付人とは小説に登場する密偵のことです。史実の平蔵が大盗賊を摘発できたのも、付人をスパイとして盗賊集団に潜り込ませたりしたっことも大きかったと言われています。

 ところで、長谷川平蔵が1795年に在職中に死去し、後任に森山孝盛という旗本が火盗改方長官になります。彼は随筆を残していてその中にこんなことを書いています。「禁止されている目明かしをもっぱら使ったため、大盗賊はたちまち召し捕られて手柄を挙げたが、世間は穏やかにはならなかった」と。ここで言う目明かしとは付人、密偵のことです。森山は何を言いたかったかというと、こういうことです。

 幕府は町奉行所や火付盗賊改方に対して、目明かしの雇用を再三にわたって禁止する通達を出していました。目明かしは、町奉行所などの正規の職員ではなくて、奉行所の警察担当の同心がポケットマネーで私的に雇った人です。火付盗賊改方の密偵も同様に正規の職員ではありません。裏社会の人脈に精通する貴重な情報源ですが、お上の権威を振りかざし、商店などに難癖をつけてはカネを脅し取る者が多かったようです。銭形平次のような庶民の味方は少数派だったようです。しかし、長谷川平蔵は幕府の禁止通達を無視していたのですね。

 森山が「大盗賊を召し捕ったが、世間は穏やかではなかった」と記していますが、密偵にするということは、罪人を処罰せず、今で言う司法取引で罪を帳消しにするわけですから、世間的にはよろしくない、ということです。平蔵は小悪に目をつぶり巨悪を退治するというスタイルだったようです。一方で、平蔵が生きていた時代の史料では、平蔵は庶民から圧倒的人気を誇っていました。密偵も小説同様、根はいい人だったかもしれません。

 さて、小説の密偵で最古参の一人が小房の粂八。中村吉右衛門さん主演のテレビシリーズでは故・蟹江敬三さんが演じていました。粂八は深川・石島町の船宿「鶴や」を経営し、パトロール船の基地にしています。船宿の収入から盗賊探索費用と他の密偵たちの給与をまかなっています。
 小説上の架空の船宿ですが、場所は小説で詳しく描かれています。<小名木川から深川へ入り、新高橋をくぐってすぐに右へ、堀川にかかる扇橋をくぐってすこし行くと、左手に〔鶴や〕の軒行灯が、ぽつりと闇に浮いて見えた>(第9巻第3話「泥亀」)
 小名木川から堀川(大横川)に沿って遊歩道が続き、徒歩でも舟と同じルートで扇橋に導いてくれます。もちろん「鶴や」は存在しませんが。鬼平犯科帳のすばらしいところは、古地図に忠実に江戸の風景が再現されていて、現実の風景と小説の世界が融合していることです。小説と古地図で江戸散歩を楽しめます。
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扇橋から大横川を望む。鶴やは左岸にあったとの設定だ

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船宿「鶴や」と周辺の地図



2017年4月28日 (金)

2017年4月28日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 江戸城編④」

4月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(江戸城編)です。

4月28日放送では「鬼平も勤務した江戸城」についてお話します。

 

 先週に引き続き、時代小説「鬼平犯科帳」(池波正太郎著、文春文庫)の主人公、火付盗賊改方長官、長谷川平蔵から江戸城のエピソードをお話します。長谷川平蔵は実在した旗本で、1746年に生まれ1795年に死去しました。当時は数え年ですから50歳でした。この当時、武士に定年制はなく、70歳を越えてもお役目につく旗本も多かったようです。

 小説の第23巻特別長編「炎の色・盗みの季節」にこんな描写があります。<それは、ずいぶん、むかしのことになる。安永四年の早春のことだから、長谷川平蔵は三十歳になったばかりで、当時は、西ノ丸・書院番という御役目についていた>

 安永4年は西暦1775年。西ノ丸は大御所(引退した前将軍)や将軍世子が暮らす御殿のことです。書院番は警護隊。史実の平蔵は1774年、29歳で西ノ丸書院番に入りました。旗本として最初の御役目でした。

 当時の平蔵についてこんな逸話が残されています。現代語訳で紹介しましょう。
 <ある日、神田周辺で火災が起きた。平蔵は上司に欠勤届を出し、そのまま神田御門に近くにあった老中・田沼意次の上屋敷へ向かった。田沼は江戸城に勤務していて、平蔵は田沼の家族に延焼の危険があるのですぐに避難を」と呼びかけた。平蔵は家族らを引率して田沼家の別邸へ無事に避難させた。別邸に到着すると、高級菓子と夜食が届けられた。平蔵は自宅を出る前に、妻に夜食をつくって田沼家の別邸の届けさせるよう依頼。田沼家上屋敷に向かう途中で高級菓子を注文して届けさせた。田沼意次は家族から平蔵の手回しの良さを聞いて感服した>

 時の権力者だった田沼意次に気に入られたのか、平蔵はほどなくして番方(武官)の旗本の最高ポスト、御先手組頭に抜擢されました。御先手組とは幕府常備軍のことです。御先手組頭になるまで平蔵は西ノ丸に12年間勤務していました。この間、大名や旗本からの献上品を扱う西ノ丸進物番という応接役も務めました。進物番は儀式などで人前に出ることが多いので礼儀作法がしっかりしていて、男前でなければ務まらない役職と言われていました。その後、歩兵隊を率いる西ノ丸徒(かち)頭を経て御先手組頭に昇進し、火付盗賊改方長官も兼任しました。

 経歴や逸話から推測すると、平蔵はイケメンで礼儀正しく、しかも上司への配慮が行き届き、武勇の誉れ高い旗本だったようです。旗本は約5千人いましたが、そのうち3040%が役職に就けなかったと言われています。役職に就けば、次は出世競争です。平蔵はその点、うまく立ち回ったのかもしれません。

 西ノ丸があった所は現在、二重橋の奥にある皇居正殿になっています。

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長谷川平蔵が御先手組頭になるまで勤務した西ノ丸は、

二重橋の奥にあった

放送の最後に紹介した「鬼平犯科帳」で使われた

役宅の門はこちらに写真があります。
http://fm843.air-nifty.com/nihon/

音声はこちら
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2017年4月28日放送 日本のカタチ

2017年4月21日 (金)

2017年4月21日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 江戸城編③」

4月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(江戸城編)です。

4月21日放送では「鬼平ファン必見の清水門」についてお話します。


 千代田区役所の向かいに清水門に通じる橋があります。作家、池波正太郎さんは「江戸古地図散歩」の中で、このように書いています。

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清水門の向かいに「御用屋舗(屋敷)」がある。
小説では、ここに火付盗賊改方役宅があったとの設定だ


<むかし、徳川家康が、はじめて江戸へ入ったころには、このあたりに清水寺があったので、それにちなみ、城門の名を定めたという。現在、千代田区役所と堀をへだてて、古風な土橋をもつ城門がのぞまれる。これが清水御門だ。蒼(あお)い水をたたえた堀と石垣と城門がかもしだす雰囲気は、初夏の夕闇が濃くなりかかるころ、このあたりを歩いていて、おもわず立ち止まり、ためいきがもれるほどに美しい。>

<私の鬼平犯科帳の主人公で火付盗賊改方長官・長谷川平蔵の役宅を、この清水門外に設定したのも、このあたりの江戸城・内堀の景観が好きだったせいかも知れぬ。>

 中村吉右衛門さん主演で28年間続いたテレビドラマシリーズ「鬼平犯科帳」の舞台、清水門外の役宅は、池波正太郎さんが小説上の創作だと明言しています。古地図を見ると、清水門外に「御用屋敷」と記されています。幕府が公用で使う施設という意味です。池波さんはここを役宅の設定にしました。史実では、役宅は火付盗賊改方長官の私邸にもうけられ、長谷川平蔵の場合、役宅は本所(墨田区)にありました。ところが、江戸の記録を編集した「東京市史稿」市街編第41巻にこんな記述があるのを見つけました。<天保14年、清水門外 内藤伝十郎屋敷跡へ、火付盗賊改御役宅ができる>

 史実の長谷川平蔵死去から48年後の1843年、幕府公設の火付盗賊改方長官の役宅が実際に、清水門外に建設されたのです。間もなく廃止されたようです。池波さんは「火付盗賊改方長官になった旗本の私邸が役宅になっていることは知っていたが、江戸城に近い方が小説の展開で都合がよかった」と書いています。つまり、池波さんはこの史料を知らなかったのは間違いなく、池波さんの勘働きには驚かされます。

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清水門の向かいに「御用屋舗(屋敷)」がある。
小説では、ここに火付盗賊改方役宅があったとの設定だ


ちなみに、この清水門外の役宅は現在、千代田区役所になっています。昔も今も御用屋敷なのですね。
 清水門周辺はとても美しい風景です。高麗門に通じる橋から眺める堀、高麗門から櫓門を抜け、坂の階段を歩くと、江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚をいつも覚えます。特に坂道の階段は、土を固めて、それが崩れないように石で階段状にしていて、雁木坂と呼ばれています。雁が群れをなして飛んでいる姿に似ているため名付けられました。江戸時代当時のままの階段です。清水門を訪れる人はあまりいません。ゆったりと散策を楽しめます。

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石段を上がると高麗門を堀が一望にできる

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中村吉衛門さん主演のテレビシリーズ
「鬼平犯科帳」
で使われた役宅の門(京都の松竹撮影所で)

※ 掲載の地図は「もち歩き 江戸東京散歩」(人文社)から引用しました。

音声はこちら
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2017年4月21日放送 日本のカタチ

2017年4月18日 (火)

2017年4月14日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 江戸城編②」

4月のテーマは「古地図から江戸と東京のつながりを探る」(江戸城編)です。
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14日放送では「広大な皇居東御苑。江戸時代に何があった?」についてお話します。


 きょうは一般公開されている皇居東御苑についてお話しします。目につく江戸時代の遺構といえば、天守台。ここには地上58メートル、五層六階の壮大な天守閣がありましたが、1657年の明暦の大火で焼け落ちてしまいました。その後、加賀藩前田家が天守閣再建のため、石垣工事で有名だった近江(滋賀県)の職人たちを呼び寄せ、天守台の改築工事を行いました。しかし四代将軍・徳川家綱の補佐役だった保科正之が「太平の世に、戦争の備えの象徴である天守閣はいらない」と進言。将軍もこれを受け入れ、天守閣は再建されませんでした。このため改築した天守台だけが今も残っているのです。

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天守閣が火災で焼失後、天守台だけが再建された

 天守台の近くには本丸がありました。徳川将軍が暮らし、老中ら閣僚、さまざまな役目の旗本、御家人らが公務員として働く幕府の中枢です。本丸には時代劇で有名な大奥もありました。大奥で働く女性たちは平川門から城内と城外を出入りしていました。平川門は別名、不浄門と呼ばれ、江戸城で亡くなった人、江戸城で犯罪を犯した人を城から出す門でした。吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭も不届き者としてこの平川門から外に出され、切腹現場まで護送されました。

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平川門に通じる橋

 本丸の東側には二の丸がありました。将軍の別邸と世継ぎが暮らす御殿があり、庭園が整備されていました。1968年に皇居東御苑が一般公開されるのに伴い、九代将軍・家重の時代の絵図面をもとに庭園が復元されました。現在、私たちが見る二の丸庭園です。 幕府の中枢だった皇居東御苑ですが、現在は警備の番所などを除き、建築物はほとんど残っていません。先ほどお話した浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけた松の廊下も散策道になっています。

 実は幕末に江戸城は何度も火災を起こし、本丸、二の丸は焼失しました。隠居した将軍(大御所)が暮らす西の丸も火災で焼けて、仮御殿の西の丸を再建し、そこに幕府の中枢を一時的に移しました。本丸と二の丸は再建する間もなく、明治維新を迎えたのです。明治天皇が江戸城に入り、皇居を構えたのは当時、唯一再建されていた西の丸です。二重橋の奥の方です。現在の皇居の主要施設が江戸城の西の丸周辺に集中しているのは、明治維新当時、本丸も二の丸も火災で焼失していて、再建されなかったためです。

 皇居東御苑が幕府の中枢だったことをしのばせるのは、北桔橋(きたはねばし)門です。この門から入るとすぐに本丸に通じていたため、江戸時代はその名の通り、跳ね上げ式の門で普段、橋は上げられていて通行できませんでした。

 皇居東御苑を散策するときは、幕府の中枢だったことを想像しながら歩いてみてください。

音声はこちらからkaraoke

«2017年4月7日放送 日本のカタチ「古地図から江戸と東京のつながりを探る 江戸城編①」

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