2017年8月18日 (金)

2017年8月18日放送 日本のカタチ「隅田川の橋③」

小松健一さんのブログは後日更新予定です。

音声はこちらからkaraoke

2017年8月11日 (金)

2017年8月11日放送 日本のカタチ「隅田川の橋②」

8月のテーマは「隅田川の橋」です。

8月11日放送では「江戸随一の繁華街を生んだ両国橋」についてお話します。

 

先週お話した千住大橋は1594年に架けられましたが、その後約70年間、隅田川には新たな橋は架けられませんでした。徳川幕府が江戸防衛のため、千住大橋以外は隅田川に橋を架けない方針を立てていたからです。しかし、その方針を転換した大きな災害がありました。1657年に起きた明暦の大火です。江戸の三分の二を焼いて犠牲者は10万8千人といわれています。これほど多くの犠牲者が出たのは、猛火に追われた人々が浅草橋門で逃げ場を失い、隅田川に落ちて水死した人も多かったからです。

 火災の際に惨状を繰り返さないため、橋の建設が必要と認識されたのです。さらに、大火後の江戸の都市計画で本所、深川(現在の墨田区、江東区)の都市開発が策定され、そのためにも橋が必要となりました。こうして建設されたのが両国橋です。建設の年は資料によって違いがありますが、1659年から1661年の間に完成しました。

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明治時代に撮影された、木橋だった頃の両国橋

 両国橋という名前は、隅田川を隔てて江戸城寄りの武蔵国、反対側の下総国、つまり二つの国を結ぶ橋なので両国橋となりました。もっともその後、本所、深川は武蔵国に編入されましたが、橋の名前はそのままになって現在に至っています。そしてその周辺地域も両国と呼ばれるようになりました。

 火災の避難路という意味合いもあったので、両国橋の両側には火除け地として広小路が設けられ、建物の建設は禁止されていましたが、見世物小屋、茶屋、屋台、髪結い床など仮設店舗は黙認されました。防災上の空き地なのですが、都市広場として活用されたのですね。江戸後期になると屋台では寿司、天ぷら、蕎麦などが売られ、現在のにぎり寿司も両国の屋台から誕生しました。

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錦絵に描かれた両国橋のにぎわい

 今に続く隅田川の花火大会も両国橋に近い料理屋がカネを出し合って花火を始めたのが最初です。ちなみに、両国橋と花火についてこんな悲劇もありました。明治30年の花火大会で見物客が橋の上にひしめき、欄干が崩れ落ち、多くの死傷者が出ました。これを機に明治政府は木橋から鉄製の橋に架け替えました。現在の橋は関東大震災後の昭和7年に架け替えられたものです。両サイドには江戸当時の広小路はなくなり、江戸の賑わいはなくなりました。

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錦絵に描かれた江戸時代の両国橋の花火

 両国には回向院があります。境内では勧進相撲が開催されました。両国に国技館があり、大相撲が開催されているのは当時の両国のにぎわいがルーツになっているのです。

放送された音声はこちらでお聴きいただけますkaraoke
2017年8月11日放送 日本のカタチ

2017年8月 4日 (金)

2017年8月4日放送 日本のカタチ「隅田川の橋①」

8月のテーマは「隅田川の橋」です。

8月4日放送では「千住大橋」についてお話します。

 

現在、隅田川は荒川の支流です。北区の岩淵水門から荒川から隅田川が分離し、荒川は葛西臨海公園近くで東京湾につながっています。これは大正時代以降の姿です。江戸時代は岩淵水門から下流の荒川は存在しておらず、荒川がそのまま隅田川になっていました。岩淵水門から下流は人工的に掘削されたものです。荒川はかつて洪水などの被害が多かったのですが、隅田川を支流にすることで洪水被害を抑えることができました。

 隅田川には現在、18の橋が架かっています。江戸時代はわずか五つでした。最も古いものが千住大橋。徳川家康が豊臣秀吉の命令で江戸に赴任して4年後の1594年に架橋されました。2番目が両国橋(1660年)、次いで新大橋(1693年)、永代橋(1698年)、そして吾妻橋(1774年)です。

 千住大橋が架けられたのは軍事的理由でした。豊臣秀吉が家康を関東に配置させたのは、関東から東北にかけて家康を通して秀吉の勢力範囲に取り込む目的があり、東北への軍事行動に備えて奥州道中(奥州街道)の整備を急いでいました。千住大橋は江戸から東北への街道整備と一体となって架橋されたのです。後に江戸と上方を結ぶ大動脈となる東海道では、江戸から神奈川に向かう多摩川河口に橋が架けられたのが千住大橋の6年後、1600年のことです。東北に向かう架橋整備の緊急性がいかに高かったかがうかがえます。

 橋が出来たことで近隣の人々が集まり、町並みが形成されました。そして1604年に奥州街道の最初の宿場町、千住宿が誕生しました。江戸から日光、奥州、水戸、房総の各方面へ向かうには千住大橋を渡りました。さらに参勤交代で千住大橋を渡る大名家は60家にも上りました。このため、1843年の記録では、家屋2370軒、人口9956人、旅籠55軒を数えています。このうち飯盛り旅籠は36軒。飯盛り旅籠とは、飯盛り女という遊女を置いた旅籠で幕府は当初1軒に2人の女性を置くことを許しましたが、その後、全体で150人が許され、江戸近郊の遊里として旅人よりも江戸っ子で賑わったといいます。

 また、千住は宿場町であるだけでなく、隅田川の水運と街道の水陸両方の交通の便に恵まれていたため、物資が急増し市場としても発展。神田、駒込と並ぶ江戸三大市場と言われました。江戸城に納めるクワイ、蓮根、芋などを扱う幕府の御用市場でもありました。

 交通の便の良かった千住は現在も名残をとどめています。北千住駅にはJR常磐線、つくばエクスプレス、地下鉄日比谷線、千代田線、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)が乗り入れています。北千住駅の特色は、周辺に銭湯や飲食店が多く、途中下車してそこへ流れたりする人が多いことです。まさに宿場町の様相ですね。

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歌川広重が「名所江戸百景」で描いた千住大橋


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2017年7月28日 (金)

2017年7月28日放送 日本のカタチ「江戸城の城門④」

7月のテーマは「江戸城の城門」です。

7月28日放送では「皇居周辺の城門」についてお話します。

 

江戸時代の面影を残し国の重要文化財に指定されているのが田安門と清水門、外桜田門です。武道館に通じる田安門は1607年創建。現在の門は1636年建築で現存する江戸城の遺構では最も古いものです。江戸時代、神田祭では神田明神の祭礼の行列が田安門から江戸城内に入って将軍が見学しました。清水門は田安門とともに北の丸公園に入る入り口になっています。現在の門は明暦の大火の翌年、1658年に再建されたと伝えられています。

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外桜田門

 外桜田門。家康が江戸に入る以前からあった桜田郷という地名から門の名前がつけられました。枡形はタテ27メートル、ヨコ38メートルもあり、現存する城門の中で最大の大きさです。1860年、大老・井伊直弼が水戸藩の尊皇攘夷の浪士たちに殺害された「桜田門外の変」は、外桜田門の前で起きました。彦根藩・井伊家の上屋敷は、外桜田門から約500メートルのところにあり、現在は憲政記念館になっています。

 事件と言えば、皇居前広場から宮内庁に通じる坂下門で1862年、桜田門外の変から2年後、坂下門外の変が起きました。これも水戸藩浪士たちが老中・安藤信正の行列を襲った事件です。ただ、桜田門外の変以来、大名行列は警戒が厳重になり大勢の侍が警護していたので、暗殺は失敗に終わりました。

 もう一つ事件を。1855年2月、江戸城の御金蔵(おかねぐら)が破られ4000両が盗まれる事件が起きました。御金蔵は江戸城内に2カ所ありましたが、破られたのは天守台近くの御金蔵。蔵の鍵が解錠されていたので、合い鍵をつくったと思われました。警備厳重な城門が何カ所もあるのにどうやって忍び入ったのか。犯人の目星はつきません。2年後、事件は一挙に解決しました。富蔵という男が加賀国(石川県)で多額の買い物をして怪しまれて通報され取り調べを受けました。冨蔵は藤岡藤十郎という御家人と一緒に江戸城に侵入して盗んだことを自供。藤岡も江戸で逮捕されました。御家人と言えば、将軍の家来、幕臣です。藤岡は徳川御三きょうの一橋家に勤務していたのですが、給料が低く居酒屋の副業をしていて冨蔵と知り合い、犯行を計画しました。どうやって江戸城に侵入したか。藤岡は一橋家を辞めたあと、幕府天文方に勤め、そこで江戸城内の絵図を写し取ったのです。藤岡と冨蔵は
北桔橋(はねばし)門の脇の塀から侵入したそうです。
 
 北桔橋門は江戸城の中枢、本丸に最も近い門です。本丸とは将軍が暮らし、幕府の閣僚である老中らが勤務するところです。こんなところから賊が進入するわけがないと思って、意外と警備はもろかったのかもしれません。

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大手門

 

音声はこちらkaraoke

2017年7月21日 (金)

2017年7月21日放送 日本のカタチ「江戸城の城門③」

7月のテーマは「江戸城の城門」です。

7月21日放送では「城門の名前の由来」についてお話します。

 

有名な城門の一つに虎ノ門という城門・見附がありました。江戸時代、このあたりには「虎」の名を冠した地名や町はありませんでした。なぜ虎ノ門か? 四神(しじん)思想にもとづくと言われています。これは、四方に青龍、白虎、朱雀(神の鳥)、玄武(げんぶ=亀の体に蛇が巻き付いたような獣)という4つの神獣を配置することで城を守るという思想です。白虎を配置する方角に城門を築いたので虎ノ門と名付けられた説があります。このほか、「千里ゆくとも無事に千里を帰る」と言われる虎にちなんだという説、昔に朝鮮半島から虎を連れてきた際、巨大な檻を入れるために門柱を広げたことから命名されたという説、門の内側にあった大名屋敷に「虎の尾」という種類の桜の木があったという説があります。 

 江戸時代、虎ノ門があったあたりの町名は西久保で明治以降も引き継がれました。明治6年に虎ノ門は撤去されました。しかし、その付近の俗称となって使われ、交差点や駅名に使われました。でもあくまでも通称です。戦後の昭和22年、現在の港区が成立した際も芝西久保でした。昭和24年になって交差点や駅名で使われていた虎ノ門を正式に町名に採用したのです。東京では町名から江戸の名残が消え、駅名や交差点名にのみ残してきたのとは反対のパターンです。

 虎ノ門は撤去され、外堀も埋め立てられましたが、虎ノ門三井ビル前や、地下鉄虎ノ門駅から文部科学省に至る所に外堀の石垣が保存されています。虎ノ門駅11番出口付近に石垣の展示コーナーがあります。

 虎の檻の話が出ましたが、半蔵門の名前の由来にも似たような話が残されています。山王祭は江戸時代、半蔵門から江戸城中に入り、将軍が見学しました。勇壮な祭りの行列が有名で、象をかたどった大きな山車がこの門を抜けることが出来ず、象の飾りを半分にして門内に入ったので半蔵門になったという説です。ただ、この門の近くに服部半蔵の屋敷があったので半蔵門という名前がつけられたという説に説得力があります。

 現在の八重洲にあった呉服橋門。橋のたもとに将軍家に呉服を納める後藤家の屋敷があったことから名付けられました。首をかしげるのは筋違(すじかい)橋門。痛そうな名前です。現在の神田須田町にあった城門です。歴代将軍が江戸城大手門から神田橋門を渡り、この筋違橋門を抜けて上野の寛永寺に参詣する御成道のルート。このため御成門とも呼ばれていました。ただ、現在の地下鉄の御成門駅は関係ありません。地下鉄の駅名の方は、増上寺の裏門の別表現です。
 一方、日本橋を出発して筋違橋門から本郷通りを進むと中山道に抜けます。門内で御成道と中山道が交差するので筋違という名前がつけられたそうです。筋違橋は現在の万世橋と昌平橋の間に架けられていましたが、明治5年に撤去されました。

 

※ 地下鉄虎ノ門駅から文部科学省に通じる外堀石垣展示コーナーについては、以下のウエブサイトをご参照ください。

https://www.ehills.co.jp/rp/dfw/EHILLS/event/unique_museum/018/index.php

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スタジオの小松健一さん

音声はこちらからどうぞkaraoke
2017年7月21日放送 日本のカタチ

2017年7月14日 (金)

2017年7月14日放送 日本のカタチ「江戸城の城門②」

7月のテーマは「江戸城の城門」です。

7月14日放送では「城門はまっすぐ歩けなかった!」についてお話します。

 

 江戸城の城門の構造はユニークです。すべてではありませんが、枡形門と呼ばれる構造でした。コメや水の量をはかる桝の形にして石垣を巡らせ、門内では直角に曲がらないと出口に出られない構造です。城門の中が立方体の桝の形状です。敵が門内に突入しても周囲の石垣の上から鉄砲や弓矢で食い止めることが可能な構造です。清水門、田安門、外桜田門は当時の枡形門が残されています。

 皇居周辺以外でも、枡形門を今も体験できる一つに四谷門(四谷見附)があります。皇居の半蔵門近辺からからまっすぐ新宿御苑方面へ行くと、四谷見附橋があります。この橋を渡らずに右側を見ると石垣が続いています。石垣に沿って歩くと、石垣と石垣の間に道があり、四谷に抜けることができます。江戸時代、四谷見附橋が四谷門(四谷見附)の入り口で、門内に入って右へ曲がり、石垣の突き当たりを左に曲がり四谷へ向かっていました。今も石垣沿いに歩くと、当時のコースをたどることができます。

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四谷門(四谷見附)は枡形になっていて出入り口がずれているため、
城門を挟んで道がずれている
(「復元江戸情報地図」朝日新聞社より引用)

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四谷見附橋沿いの石垣

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石垣に沿って歩くと四谷方面に抜ける道に出る。
江戸時代のメインルートで昔は路面電車も走っていた


 明治以降もしばらくは、このコースが東京から新宿へ向かう主要道路でした。明治末期に市電(路面電車)が敷設された時も、市電は直角に曲がって走っていたのです。ところが交通量が増えて不便になったので大正時代にまっすぐ通ることができる橋を架けたのです。これが現在の四谷見附橋です。

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東京と四谷方面を結ぶ現在のメインルート、
四谷見附橋


 皇居周辺以外の城門跡はあちこちで残っています。日比谷公園を有楽町側から入ると、日比谷門跡の碑があって石垣が一部残っています。公園内に心字池があります。これは堀だったのを池にしたものです。パレスホテルに隣接する和田倉噴水公園には和田倉門の遺構が残されています。このほか、外堀に架かる牛込橋近くに牛込門跡の石垣、千代田区紀尾井町に赤坂門跡の石垣が残っています。外堀界隈を歩いて石垣があると、城門跡か堀跡だということがしのばれます。以外と多く見られますよ。

 地下鉄南北線市ヶ谷駅構内には「江戸歴史散歩コーナー」があります。南北線開通工事の際、発掘された石垣を再現しています。

※枡形門の構造については「大江戸歴史散歩を楽しむ会」のブログをご参照ください。
http://wako226.exblog.jp/15790031/

 

2017年7月 7日 (金)

2017年7月7日放送 日本のカタチ「江戸城の城門①」

7月のテーマは「江戸城の城門」です。

7月7日放送では「江戸城の城門はいくつあった?」についてお話します。


 皇居の内堀沿いを歩くと、大手門、平川門、半蔵門など江戸城の城門を見ることができます。昔の江戸城を囲むように城門があったと思いがちですが、城門は90以上あったとも言われています。つまり皇居の周囲だけでなく、広範囲に城門が点在していたのです。

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御城(江戸城)を中心に渦巻き状に堀が巡らせ、
浅草橋、市ヶ谷などに城門がある
(「復元江戸情報地図」朝日新聞社より引用)


 江戸城の城門は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が幕府を開いて、江戸を事実上の首都として整備をしたことと大きな関係があります。今日はなぜ、これだけ城門が多かったのかを、江戸の都市整備に焦点をあててお話します。

 徳川家康が江戸に入った頃の江戸城は小さな城でした。当時の江戸の地図を見ると、江戸城を中心に「の」の字を書くように堀が渦巻き状になって外に広がっていることが分かります。理由があります。城を攻め込まれた場合の防御です。敵は遠くから堀に沿ってぐるりと回りながら進まなければなりません。また堀の外から大砲で砲撃しようとしても、堀の周囲にある武家屋敷を破壊しなければ大砲は城に届きません。防御を徹底したのが江戸城の堀です。

 もっとも、物資搬入や通行のため堀に橋を架けなければなりませんが、橋とともに城門を設けました。城門には番所が置かれ、不審者の監視にあたりました。門と橋が一体となった城門です。これを見附門といいます。現在の浅草橋、市ヶ谷駅近くにも見附と呼ばれる城門があったのです。地下鉄の駅に赤坂見附駅がありますが、これも城門があった名残です。虎ノ門も城門があった場所です。

 東海道、甲州街道、中山道、奥州道中など江戸に通じる主要街道は外堀に架かる城門・見附につながっていました。いわば道路の検問所ですね。江戸城に容易に攻め込ませないという徹底した防衛拠点が城門だったのです。江戸の範囲も城門が目安でした。東は常盤橋門から、西は半蔵門から、南は外桜田門から、北は神田橋門から四里(16キロ)四方とされました。
 明治になって東京15区制が実施された際、外堀の外郭に接したところは小石川区、牛込区、四谷区、赤坂区、芝区といずれも城門・見附の名前が区名になりました。

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左手の大きな城門が清水門。右は高麗門

2017年6月30日 (金)

2017年6月30日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ⑨」

6月30日放送では「理想の上司」についてお話します。

 時代小説「鬼平犯科帳」(池波正太郎著、文春文庫)では、火付盗賊改方長官、長谷川平蔵は部下に全幅の信頼を置いて、すべての責任を自分が負うという上司として描かれています。部下にとって理想の上司です。それを最も端的に描いた作品が第10巻第6話「消えた男」です。物語は、火盗改方筆頭与力、佐嶋忠介が愛宕神社参拝のため石段(男坂)にさしかかろうとして、かつての部下で町人姿の高松繁太郎に出会うところから始まります。


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愛宕山にある愛宕神社


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愛宕神社に通じる石段「男坂」

 2人は平蔵の前任の火盗改方長官、堀帯刀に仕えていました。堀帯刀はやる気のない長官として描かれ、高松は愛想を尽かして武士の身分を捨てて出奔したのです。佐嶋は久しぶりに再会した高松を近くの料理屋に誘います。そこで佐嶋は、平蔵がいかに優れた人物であるかを熱っぽく語り、理想の上司だと強調します。それを聞いた高松は密偵として平蔵に仕える決意を固めます。


 堀帯刀は実在の人物で、実際に平蔵の前任の長官でした。小説では「無能のため解任された人物」「市中見回りは一度もしたことがない」と手厳しく書かれています。史実の堀帯刀は家禄1500石の旗本ですが、小説では500石に格下げされています。実際にはどんな人物だったのでしょうか。旗本らの評判を記した「よしの冊子」には、「金繰りに困っている」、「信頼されず、部下の中には出勤しないものもいる」などと評されています。噂話なので額面通り受け取ることができないのですが、平蔵に比べるとやや見劣りしている印象を受けます。


 長谷川家は平蔵の父の代までは裕福だったと伝えられていますが、平蔵の代で財産がなくなったと言われています。若い頃、遊興費に使ったという説もありますが、捜査費用に充てたという説もあります。というのも、火盗改方長官は持ち出しの多い役職で、在任中に借金を重ねる長官もいたほどです。「よしの冊子」など当時の記録には、平蔵が部下思いであること、見回り途中に貧しい人を見かけたら金銭を与えたこと、といった人物像が描かれています。小説の平蔵は史実に近かったのではないでしょうか。


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愛宕神社周辺の地図

※ 掲載の地図は、毎日新聞連載「鬼平を歩く」(2016年3月11日掲載)から引用しました。

音声はこちらからkaraoke

2017年6月23日 (金)

2017年6月23日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ⑧」

6月のテーマは「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る」です。

6月23日放送では「本格派の盗賊」についてお話します。

 

 今日の舞台は日本橋に近い日本橋小網町です。鬼平犯科帳(池波正太郎著、文春文庫)第6巻第5話「大川の隠居」の舞台の一つです。日本橋小網町には江戸時代、日本橋川につながる堀(東堀留川)があり、そこに思案橋という橋がありました。小説では、この橋のたもとに船宿「加賀や」がありました。この作品はいわゆる捕り物がメインではなく、読後感がさわやかな人情話の部類に入ります。池波正太郎が鬼平の作品の中でベスト5に入れています。

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思案橋周辺の地図

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江戸時代、小網町の氏神だった小網神社。
現在社殿は昭和4年造営。
戦禍を免れ日本橋地区に残る唯一の木造檜造りだ


 盗賊上がりの船宿の船頭・友五郎が主人公です。鬼平犯科帳に描かれる盗賊は、押し入った商家で殺傷をする急ぎ働きの盗賊が多いのですが、一方で、①盗まれて難儀する所からは盗まない、②人を傷つけない、を掟とする「本格派の盗賊」も登場します。友五郎は本格派の盗賊の一人。しかも誰にも気づかれずに盗むことを信条としています。友五郎は盗賊から足を洗ったのですが、真の盗賊の心意気を見せたいと、長谷川平蔵の役宅に侵入し、平蔵愛用のキセルを盗みます。よもや火付盗賊改方の役宅に賊が忍び入るとは思いもしなかった平蔵は、キセルがなくなり首をかしげます。その後、平蔵がたまたま小網町に行き、舟を出させるのですが、船頭を務めたのが友五郎。ここから物語は意外な展開になります。

 江戸時代、ヒーロー的な盗賊といえば鼠小僧次郎吉ですね。鼠小僧は大名など武家屋敷専門の盗賊でした。武家屋敷98カ所に侵入し、被害金額は3121両。1両10万円として3億1210万円。自白調書が残っていて、なぜ大名屋敷に忍び込んだかとの理由があります。「武家屋敷の中は警戒が緩い。特に女性が暮らす奥向きは男子禁制なので、武士がいない。万一見つかってもすぐに逃げられる」というのが大きな理由でした。

 鼠小僧が処刑されて15年後、市之助という盗賊が逮捕されました。彼も武家屋敷専門の盗賊で、自ら「小鼠小僧」を名乗っていました。彼は武家屋敷から盗む理由をこう語っていました。「武士はお上から給料をもらっている。盗まれても食いはぐれず困らない。しかし町人は汗を流して働き、生活費を削っておカネを貯めている。これを盗めば一家は路頭に迷う。だから盗みに入るのは武家屋敷に限る」。鬼平の盗賊の哲学を彷彿とさせる主張ですね。

 「大川の隠居」は平蔵と友五郎との、サスペンス調でしかもユーモアあり、人情ありの名作です。是非お読みになってください。東堀留川は戦後に埋めたてられ、思案橋もありませんが、永井荷風は散策記「日和下駄」(1915年)で江戸橋から思案橋、鎧橋を見る眺望は「東京市内の堀割の中にて最も偉大なる壮観を呈する」と絶賛しています。今は日本橋川は首都高速ですっぽり覆われています。偉大なる壮観の面影はありません。

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東堀留川は埋め立てられ、
思案橋が架かっていた所は小網町児童遊園になっている

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鎧橋から日本橋川を望む。
右手から東堀留川が流れ込んでいた



※掲載の地図は、毎日新聞連載「鬼平を歩く」(2016729日)から引用しました。

音声はこちら
karaoke
2017年6月23日放送 日本のカタチ

2017年6月16日 (金)

2017年6月16日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ⑦」

小松健一さんの解説は
6月9日放送用で掲載されたブログをご参照ください

音声はこちらkaraoke
2017年6月16日放送 日本のカタチ

«2017年6月9日放送 日本のカタチ「鬼平犯科帳から江戸の世界を探る ⑥」

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